渡辺家住宅 (わたなべけじゅうたく) 重要文化財



 山形県の米沢から日本海側へ抜ける米沢街道は、江戸期には出羽米沢と越後新発田とを結ぶ重要な交通路で、巨大な二つの山塊である朝日連峰と飯豊連峰に挟まれた険しい深山幽谷を縫って進む難路として知られていました。米沢側から越後国へとようやく山を越えた先にある宿場町が越後上関宿と下関宿で、特に下関宿は並行して流れる荒川の湊町も兼ねていることから、12km下流の日本海沿岸での北前船との交易の接点ともなり、流通上でも重要なポイントともなっています。そんな近世の宿場町湊町として繁栄した歴史を持つこの越後下関は、今でも街道沿いにスケールの大きな大型町家建築がそのまま残されており、特に茅葺屋根の佐藤家(国重文)と津野家(県指定)に、柿葺・瓦葺の渡辺家がそれぞれ軒を並べた風景は他の地域では見ることの出来ないもので、周囲に広がる山並と相まって独特の景観を作り出しています。

 

 何故このような大型の町家建築が造られたかと言うと、町家と同時に農家も兼ねていることで、米どころである越後ならではの豪商兼豪農屋敷が誕生したというわけです。複合型の町家建築ということですね。その為にファサードにあたる街道側は町家形式ですが、中央部から背部へT字型に農家形式の箇所が合体しており、その平面構成から「撞木造り」と呼ばれるこの下関地区独特の建てられ方です。
 そしてこの下関宿最大の豪商が渡辺家で、大庄屋を務めた格式の高い家柄。元は村上藩の武士でしたが、江戸初期の1667年(寛文七年)に当地へ移住し帰農して、廻船業や酒造業で成功して莫大な利益を上げ、米沢藩の郷土にもなっています。こうした経緯からその邸宅は、豪商兼豪農屋敷でもあると同時に武家屋敷や代官所のような性格も兼ね備えており、まさに複合型の大型住宅建築です。

 

 

 敷地は約三千坪程あり、東西に走る街道を南側にして主屋と数棟の蔵が並ぶ構成で、北と東には城館のように濠を廻らせています。主屋は天明期の火災で焼失したそうで、1788年(天明八年)に再建されたもの。街道に面した箇所は切妻屋根二階建てで、一階は桟瓦葺ですが二階は柿葺に玉石を置いた石置になります。屋根の傾斜が緩く、庇の出も浅いので比較的海に近いことから雪害よりも風害に考慮しているのでしょう。鶴岡にある風間家丙申堂にも同様の石置屋根が見られます。

 

 正面右寄りに大戸口があり、左寄りに式台を置く構成で、それ以外は京風の繊細な千本格子が嵌められた町家の佇まいを見せています。大戸口は観音開きで扉に金物を打った重量感溢れる意匠で、代官所のような面構え。上に神棚もあります。

 

 

 大きさは桁行35.1m奥行17.8mあり、内部は大戸口を入って奥まで通り土間が走って西側に座敷が並ぶ構成で、部屋数は全部で27部屋。二階もありますし複雑な間取りにもなっているので、ちょっと迷いますね。主屋の西側には池泉回遊式の庭園が広がります。

 

 主屋のおよそ東半分を占める土間部は、京町家に見られる細い通り土間と農家建築の土間が合体した様な空間で、土間沿いに表側から畳敷きの座敷が並んで奥に囲炉裏が切られ、土間境には仕切りが無く天井を高く吹き抜けた通り土間と一体化しています。通り土間の上には豪壮な小屋組みが見られ、一辺50cmにも及ぶ大黒柱がこの重厚な梁組を支えます。このスケール感はもはや民家建築のレベルではなく、京都妙法院庫裏のような国宝クラスの社寺建築に匹敵します。

 

 

 この土間部では表通り側と奥とでは意匠に大きく差があり、表側は店の機能である「勘定の間」と二十七畳の「茶の間」が並び、それぞれ棹縁天井が張られて梁や柱には漆が塗られていますが、奥の「台所」は天井板が無く曲がりくねった野太い梁が剥き出しになっています。この「茶の間」までが町家としての空間で、北陸の野々市町にある喜多家と似ています。

 

 

 一方奥の「台所」から先は土間が広くなり、雪国農家モードの素朴な作業場と一変します。こちらは同じ越後の長谷川家と似ていますかね。つまり全く趣向の違う二つの民家の土間空間を繋ぎ合わせ、上から巨大な屋根を被せて包み込んだような空間です。

 

 

 「茶の間」には奥に仏間もあります。北陸から越後地方にかけては浄土真宗が盛んな土地ですから、単独した立派な仏間が造られます。ここにも上には神棚が。

  

 「勘定の間」と通り土間を間に挟んで対面するのが「前座敷」で、このエリアは二階に座敷が並びます。ちょうど京町家の表屋造りにおけるファサード側と同様の構造で、この「前座敷」は店としての接客空間となります。シンプルですが端正な床の間や違い棚が付いた座敷となり、坪庭風の庭園も造られています。二階部は数寄屋風に崩しており、襖戸の引き手にも精巧な細工が施されていて、京風の洗練された町家造りの影響が見られます。北前船の寄港地が近かったからでしょうかね。この二階の座敷は客人の宿泊に使われていたそうです。

 

 

  

 「勘定の間」の西側は式台付きの玄関と変わり、ここから直列に「二の間」「大座敷」と十畳以上の大広間が続く構成。各部屋には床の間が付きそれも貼り付け壁で、それぞれ凝った紋様が見られる上質な接客空間が広がります。米沢藩への大名貸しとして勘定奉行格でもあった家柄らしく、まるで代官所の様な姿です。

 

 

 「大座敷」は十二畳半に一畳敷きの入側が矩折りに取り付く構成で、襖を取っ払うと二十五畳半の大広間としても使えます。まあ北陸や他の越後の豪農屋敷と同様の防寒防雪対策なのですが、ここではさながら武家屋敷を思わせる意匠で、実に堂々とした書院造の座敷が造られています。

 

 

 特に床の間の天袋には水墨画が描かれ、違い棚には精緻な彫刻が施されており、また欄間や雨戸入れには竹をデザインした透かし彫りが入るなど、本当にこれが民家なの?というレベルのゴージャスさ。通り土間のスケールが大きく豪放な空間と対照的なノーブルで繊細な意匠で組まれています。

 

  

 この「大座敷」の北東には六畳の書斎があり、炉も切られて茶室にもなります。「大座敷」で茶会があれば茶立所としても使えます。この書斎の東に隣接して六畳の納戸があり、ここから北へ三部屋続きに納戸が並びます。納戸と言っても家族用の部屋ですが、シンプルながら違い棚の付いた床の間も付けられ、富士を表現した障子戸に蝙蝠の図案による釘隠しなど、ここでも随所に凝った意匠が散りばめられています。

 

 

 この納戸には二階もあり、床の間付きの十畳間と十二畳間が並ぶ構成で、十畳間には月をモチーフとした二種類の襖絵も描かれています。両座敷共に庭園の眺望が優れており、ここで庭の池に浮かぶ月でも愛でていたのでしょうか?

 

 

 なんでもこの座敷は女性用のものだとかで、「大座敷」で冠婚葬祭等の宴が催される場合はこちらで女性のみで行われていたとか。親類の女性が来訪した際にもここが宿泊所となったそうです。そのせいか「大座敷」に比べると意匠は全般に柔らかく崩してあり、地袋も水墨画ではなく彩色が施されて華やいだものになっています。さらには付書院の鴛鴦の透かし欄間や、鶴の釘隠しに梅の狆潜りなど、花鳥風月をテーマとした様々な図案が随所に配されていて、男性的で端正な「大座敷」とコントラストがあります。

 

  

 庭園は18世紀中期の明和年間に造成されたもので、心字池を中心に三つの築山を設けて橋を渡した構成となり、洲浜や枯滝もある本格的な池泉回遊式です。こんな山間の静かな農村にあるとは思えないほどのレベルで、国の名勝にも指定されています。

 

 もちろんこれだけの家柄ですから夥しい数の蔵も建ち並んであり、味噌蔵・金蔵・宝蔵・米蔵・裏土蔵・新土蔵が敷地内に点在しており、主屋や門ともどもに全て国の重要文化財の指定を受けています。おそらく全国でも屈指の民家建築でしょうね。

 



 「渡辺家住宅」
  〒959-3265 新潟県岩船郡関川村下関904
  電話番号 0254-64-1002
  入館時間 AM9:00〜PM4:00
  休館日 年末年始