輪違屋 (わちがいや) 京都市指定文化財



 京都の代表的な花街の一つであった島原で、角屋と共に往時を偲ばせる数少ない遺構が輪違屋です。角屋が太夫と遊興する場である揚屋に対し、この輪違屋は太夫の生活空間である置屋となり、実は今でも現役で稼働する元遊郭の施設です。さすがに太夫達は通いですけれどね。現在は置屋としてではなく料亭として営業を続けており、首相・閣僚・官僚・知事・大企業の重役といったVIPクラスのセレブな方々が夜な夜な豪遊されているそうで、予約を取るのも大変な順番待ちも生じている一見さんお断りのアダルトな遊び場です。日本に階級は無いと嘘を言ってはいけません。

 

 創業は元禄年間(1680年〜1704年)にまで遡る様で、島原が1640年(寛永17年)に今の地に移転して以降に始めた置屋となります。この元禄年間が島原の傾城町としてのピークだった頃にあたり、当時は輪違屋以外にも一文字屋・桔梗屋・上林・柏屋・大坂屋といった名立たる置屋が軒を並べて建ち並んでいたようですね。
 京都は大火が多い町でしたからそのたびに何度も再建されており、今に残る建物は幕末の1857年(安政4年)に建てられたもので、1871年(明治4年)に改造されています。屋根が切妻造りの桟瓦葺による木造二階建てで、平入りの正面に出格子を嵌めた京町家に多くみられる「表屋造り」の外観ですが、入り口前の軒燈や行燈が遊興施設としての艶っぽさを醸し出してとても印象的です。この燈に見られる紋様は店名に由来するものですが、店の随所に見ることが出来ます。

 

  

 主屋は東側を正面として間口23.775m、奥行きが24.559mとなるので京町家特有の”鰻の寝床”ではなく、生業の性格からも内部の間取りはとても複雑。まず木戸を潜って四半敷の叩きによる土間に入ると、右手に客用の玄関がお目見えし、その奥にある寄り付きの板の間で左手に二階へ上がる大階段と、暖簾の掛かった奥座敷へと続く廊下とに分かれます。客人の導線方向がジグザグと変化するので、客を待ち構えるその先の空間を劇的に見せる巧妙な仕掛けなのでしょう。その舞台設定は大階段の曲がりくねった手摺にも示されています。
 それと階段がとても多く、大小合わせて全部で5ヶ所。これも生業の性格から頷けます。

 

  

 暖簾の先の廊下を進むと、一階北側に並ぶ座敷群。田の字型に座敷が並ぶ平面構成で、座敷を挟み込むように東西に趣の異なる庭が造られています。西側の庭は京町家特有の坪庭風の設えで、その庭の上を5間ぶっ通しの磨き丸太が柱も無く庇の深い軒を支えています。このあたりが大工の腕の見せ所なのでしょう。梃子の原理を利用しているわけですけれどね。

 

 

 座敷は北東隅の8畳間を主座敷として、北西隅の8畳間とその南に6畳間が並ぶ矩折りとなり、南東隅は衣装室となるので開放されていません。何れの座敷も数寄屋風の意匠で纏められていますが、特に北西隅の座敷の襖には太夫が自ら書いた歌の色紙が貼り付けられており、遊興場の接客空間として独特の効果を見せています。今で言うとキャバクラの内装みたいなものですけれどね。

 

 

 また見上げると天井の桟には細かいナグリも入り、床の間の地袋にも同じ設えで、随所に色々と凝った細工が見られます。但し全般に奇をてらわないシンプルな数寄屋造りで、主座敷ということからかわりと品の良い意匠で統一されているようです。

 

  

 この主座敷の東側の庭は、苔むした地に庭木と共に石燈籠や手水鉢が据えられ、小さいながらも変化に富んだ美しい眺めが広がります。主座敷に座った時に、西側と東側の庭がまるで異なって見えるようになっており、このあたりも計算されているのでしょう。

  

 この輪違屋の真骨頂は二階の座敷群。角屋もそうですが各座敷に固有のテーマがあり、客人をアッと言わせる仕掛けがドカンと炸裂する空間が並びます。特に「傘の間」は襖に花魁道中の傘紙を貼り付けた奇想天外な意匠で、性風俗産業という非日常的な時間を過ごす為の斬新な空間が広がります。今で言うとソープランドのゴージャス過ぎるインテリアみたいなものですけれどね。





 「輪違屋」
  〒600-8825 京都府京都市下京区西新屋敷中之町114
  非公開