浮田家住宅 (うきたけじゅうたく) 重要文化財



 北陸の農村部には、江戸期に十役と呼ばれる庄屋と代官を兼務させた管理制度が運営されました。土地の豪農の中から選択して仕事を任命され、名主として農民達を束ねる世話役を行いながら、年貢の取立てや裁判などの公的任務も請け負う、武士と農民との間の緩衝的な調整役の立場でした。他の地域の庄屋よりも代官の面を持つ性格から権限が強く、その居宅は豪農の屋敷と言う以上に代官所のような趣を見せ、周囲に威厳を示す狙いもあったようです。
 立山連峰を望む富山市郊外の田園地帯に残る浮田家もそんな十役を担った豪農の一つ。元々は加賀前田家の姫の嫁ぎ先である宇喜多秀家の親戚で、関ヶ原の戦い以降に前田家より立山・黒部の辺境を管理する奥山廻り役十村を任命されました。敷地は千六百坪もあり、周りに堀を回らせて高い塀を造り、大きな表門をこしらえたあたりは、代官屋敷の様相です。

 

 主屋は1828年(文政11年)の建造で、表門は1834年(天保5年)の建造。主屋・表門・土蔵ともに国の重要文化財に指定されています。主屋の外観は間口十四間桁行三間とやや細長く、これは後補で増築された為。屋根は茅葺の寄棟造りに前面の一間に石置板葺き庇を付けたもので、庇の石置きが二段になるのは、この浮田家独自のフォルム。正面に式台と土間の入り口があり、土間内部は十二畳ほどの板の間が作られています。ここは役所の間で、代官所としての機能が持たれました。

 

 役所の間の隣は式台付きの二十四畳敷きの広間となり、名主としての近郷の農民達の会合の場として使われました。天井は高く吹き抜けており、豪壮な梁組みが見られます。特に梁の曲がり具合に特徴があり、これは雪の重みで根元が曲がった欅や松の大木を巧みに組んだもので、北国特有の雪に対する強度対策でした。大工道具の釿に似ていることから釿梁と呼ばれています。また、天井に近い部分が化粧貫を数段積み上げて太い梁を組んで、その上に天井を張る造りになっています。これも北陸特有の雪対策で、強化を図ると同時に外観も美しく見せた意匠で、枠の内造りと呼ばれています。北陸の上層農家で多く見られるスタイルです。
 この広間の奥に板敷きの茶の間と台所があり、ここの空間も天井は高く吹き抜けています。台所も枠の内造りとなり、貫を三段積み上げて、がっしりとした野性的な野太い梁を渡してあります。

 

 

 広間の隣には田の字型に四つの八畳間(本座敷・二の座敷・対面の間・控座敷)の座敷が連なり、その奥に仏間があります。床付きの本座敷は上役である奉行が面会に来た時に座する部屋で、当主は手前の対面の間で応対しました。釘隠しに山岳地方を管轄したせいか、山百合のデザインが使われています。
 本座敷と仏間の裏手に、1897年(明治30年)に増築された新座敷と茶室があります。新座敷は大きな丸窓が印象的な数奇屋風の造りで、額縁や茶器などに使われる黒柿(くろがき)が障子の縁や天井に使われたり、床の壁にも珊瑚がまかれ、床柱も赤松の皮付きの太い物が使われなどるなど豪勢な趣向です。明治期に入って見廻り役を解かれて、その有り余る財力とエネルギーを趣味の世界に注ぎ込んだものでしょう。

 

 本座敷と対面の間の庭側は深い庇が造られ、雨戸の内側に手水と釣り燈籠があります。雪深い地方であることから、茶室の露地の一部を屋内に取り込む手法で、金沢の成巽閣や京都大徳寺真珠庵の茶室と共通するスタイルです。
 本座敷と新座敷の東側は回遊式庭園となり面積は約600u。表門の裏手に待合が造られ、飛び石伝いに本座敷又は新座敷に向かいます。遠く立山連峰を望む深く苔むした庭園は茶室の露地でもあったわけで、江戸期の豪農の生活ぶりが偲ばれます。

 



 「浮田家住宅」
   〒939-8044 富山県富山市太田南町272
   電話番号 076-492-1516
   開館時間 AM9:00〜PM4:30
   休館日 毎週月曜日 年末年始