遠山記念館 とおやまきねんかん) 重要文化財



 埼玉の陸の孤島と呼ばれる川島町は、その名の通り四方が川に挟まれ、隣町へ行くには必ず川越えをしなければ不可能と言うまさしく川の中の島のような町。おまけに町内は沼や池が点在し、小川も多く流れる少々湿っぽい土地柄も合って大半が田圃の”どカントリー”な場所。交通の便も非常に悪く、鉄道は走らずバスの本数も少ない、大型スーパーも無くパチンコぐらいしか娯楽が無い、主産業が農業で工場も少ない都市近郊部にしては恐ろしいほど未開の町。でもその開発に置き去りにされたことから都会の脂ぎった蹂躙にまみれず、正しい日本の郊外とも呼ぶべき美しい田園風景が残されているのは稀有なことで、いつまでもこの緑豊かで静かな光景が保たれていって欲しいものです。
 そんなどこまでも延々と続く長閑な田圃のど真ん中に、日興證券の創設者遠山元一の実家だった遠山記念館があります。この川島町出身の遠山元一が没落した生家を再興して生母の為に豪邸を建てたもので、約3千坪の敷地は水壕を廻らし屋敷林とも呼ぶべき様々な庭木を植えた庭園に邸宅と、元一が蒐集した古美術品を展示する美術館で構成された、さすが戦前のお大尽はスケールが違うなと思わず納得してしまう施設。大きな長屋門を潜って敷地内に入ると、正面に豪邸が、右手に美術館が現れてきます。

 

 この遠山記念館の見どころは美術館よりも邸宅部。戦前の有り余る財力を注ぎ込んで当時としては最高峰の技術で建造された建物群で、それぞれタイプの違う3棟の建物が広大な庭園に面するように建てられています。 1933年(昭和8年)に建造が始まり、約2年7ヶ月をかけて1936年(昭和11年)4月に竣工しました。何でもこの工事に関わった職人の数は3万5千人にものぼるそうで、各部材には全国から銘木を選りすぐって竣工されたとか。長屋門から見ると正面になる東棟は茅葺屋根の農家風の建物で、檜造りの平屋建て。

 

 遠山家はこのあたりの庄屋だった模様で、嘗ては”梅屋敷”とも命名されていました。この東棟は往時の豪農だった頃を彷彿とさせる趣で、内部の内玄関には太い梁を架け、その隣の18畳敷きの居間には囲炉裏を切った田舎風の意匠でまとめてあります。ここは生活空間の場として使われていました。

 

 渡り廊下で繋がる中棟は瓦屋根の二階建て書院造の建物で、接客用の空間だった模様です。一階の庭に面して18畳の大広間があり、全体のメインルームになる為かさすがに内装は超豪華。床柱は六寸径の天然絞り丸太による北山杉を使い、床と床脇の地板を欅の一枚板で設え、天井に春日杉に四隅は尾州檜を用い、付書院にも凝った透かしを入れた貴賓性の高い空間です。裏には化粧部屋や風呂もあります。

 

 

 さらに奥の西棟は平屋の数寄屋造りの建物で、母美以の為に造らせたもの。ここは雁行型に部屋が並び、各部屋とも庭を楽しめる日当りの良い高齢者向きの建物です。
 内部はこれでもかの京風の数寄屋空間で、一番東側の八畳半の客間は各部材に北山杉や鞍馬石に九條土やら錆竹と、あれもこれも京都産の材料をふんだんに使ったお部屋。水屋附属で茶室としても使えます。

 

 

 その隣の七畳の茶の間は、墨差し天王寺と呼ばれる黒っぽい濃淡のある壁で、天井には春日杉と薩摩杉を用い、廻し縁に皮付き辛夷を使い、縁側には桟瓦を敷いた土間としてここの天井は北山杉を入れるという、凝りに凝った意匠で造られています。

 

 さらにその隣の12畳の客間は、奥に二畳の床の間が付いた書院造の部屋。ここは桐が多く使われており、欄間や床脇の地板に菊や葡萄などの秋草を描きこんだ繊細で女性的な意匠の部屋で、これは母の居室として使われた為とか。隣には仏間が附属しています。

 

 

 各棟を結ぶ渡り廊下は、舟底天井にしたり欅の二枚板を嵌めたり数寄風の設えにしたり、何処かの高級料亭のような趣。

  

 もちろん庭園も広く、芝生に池・流水・石橋・20以上の石灯籠・水琴窟・井筒などが点在し、奥には茶室もあります。周りは田圃だらけなのに、いきなりこれだけ豪奢な空間があるなんて、門を潜るまでには信じられないほどのスーパーグレードな豪邸です。国重要文化財指定。

 



 「遠山記念館」
   〒350-0128 埼玉県比企郡川島町白井沼675
   電話番号 049-297-0007
   FAX番号 049-297-6951
   開館時間 AM10:00〜PM4:30
   休館日 月曜日 12月21日〜1月7日