戸島家住宅 (としまけじゅうたく) 福岡県指定文化財



 筑後の水郷柳川での最大の観光イベントは川下り。掘割に浮かぶ小さなどんこ船に乗って、枝垂れ柳となまこ壁が織り成す風情ある城下町の中をゆらりゆらりと進むのは中々気分が良く、春先の麗らかな日和の頃にはついうたた寝をしてしまいそうなほど。
 で、この川下りの行き着く先は藩主の御屋敷である御花周辺で、元々は柳川城があった場所。この周辺に武家屋敷街や商人街が整然と並び、城下町らしい区割りが今でも見られる地点です。その柳川城の西端の鬼童小路(市内には様々な小路が今でも残る)沿いは武家屋敷街だった場所で、この通り沿いに藩主の茶屋だった戸島家住宅が今でも往時の姿で残されています。

 

 このあたりは丁度城の真西にあたり外堀をちょいと出た所。家臣が居宅を構えるには好都合だったようで、ここも藩の勘定方だった吉田舎人兼儔(とねりかねとし)が、隠居所として寛政年間(1789年〜1810年)に構えたものです。その後藩主の立花家に献上されて専用の茶屋として使われていたようで、確かに池の畔に佇む葦葺屋根のこじんまりとした建物は文人画に出てきそうな外観ではあり、城内の一部のようなロケーションは殿様の遊興施設としてはうってつけだったのでしょう。幕末期に下賜されて明治初期に戸島家に売却され今に至るそうです。
 敷地の北側に住宅は建てられ南側に庭園が広がる構成ですが、この住宅の屋根に大きな特徴があり、まず平面で見るとコの字型になっていることで、「クド造り」と呼ばれる九州地方に多く見られるユニークな民家建築の構造の一つ。もう一つは庭園側の屋根が三段構造になっていることで、一番上が葦(よし)葺、二番目が目板葺、そして三番目が杉皮葺と、とても複雑な構成。他の箇所は葦葺に瓦の庇を取り回してあるので少々野暮ったく、対してこの庭園側の屋根は順次傾斜を緩くして軽快に見せています。

 

 内部も茶屋として使われていたように全体として数寄屋風の意匠で、武家住宅としては異色の面皮付きの柱や半丸太の天井棹などが見られ、特に竹が多く使われています。さらには各部屋の戸や扉には漢詩も彫り込まれており、施主の中国趣味が反映されているのでしょう。当時は文人画が流行していて、武士をドロップアウトした浦上玉堂が活躍していた頃ですしね。似たような臭いをこの建物に感じます。

 

  

 建物の東側は完全に接客空間となっており、式台と入側が走り庭園側に土庇も付いた書院造の座敷が並びます。その北側は三畳間の茶室となっていて、ここでも床の間には柱や落掛けに太い丸竹を嵌めた竹づくしの意匠です。ここで一番目を引くのが下地窓の三日月の透かし。この建物には月見の趣向が織り込まれているとかで、それに因んだ意匠でもありますしまたこの裏が丁度式台となっており、式台での月にまつわるサインとしても機能させているのでしょう。例えば夜にこの茶室に行燈をおけば、式台からはこの三日月の透かしがボウッと鈍く光るでしょうしね。

 

  

 茶室の南側は三畳の次の間を挟んで四畳半の座敷が続きます。四畳半というとずいぶん狭い座敷だなと感じますが、実際には東南側を一畳の入側が走るので、襖を取っ払って使えば十畳敷きの広間として使用可能。用途に応じてフレキシブルに使われるのでしょう。
 付書院や違い棚を持つ書院造の座敷ですが、使われている材料の木割は細く長押を嵌めない数寄屋風の意匠で統一されています。やはりここでも竹が大胆に採用されており、欄間の透かしや違い棚に細い小丸竹が見られます。ここで面白いのがその違い棚の上の戸袋が神棚となっている点。何故でしょうね?
 入側の杉戸には様々な題材の絵が描かれており、桜と鳩と四十雀の絵柄や萩・芒等の秋草の絵柄など。他の部屋の文人趣味とは違う大名趣味なので、藩主向け変更後に接客空間ということで追加されたのではないでしょうかね?

 

 

  

 座敷の外側に広がる庭園は掘割の水を引き込んだ池泉鑑賞式で、池の周囲に玉石を敷き詰めて洲浜を造り、沢渡りや岬燈籠を配した眺めは海浜を思わせる光景。池の水は庭奥の取水口から入り、背面の水路を流れてまた掘割に戻されるようで、背景の木立から流れ出る水路がくの字型に視点を過る構成は、狭いスペースながら遠近感を見せる巧みな手法です。ここで主人や藩主は夜な夜なこの池に浮かぶ月を愛でていたのでしょうね。
 建物は県指定文化財、庭園は国の名勝指定。

 

 



 「旧戸島家住宅」
   〒832-0067 福岡県柳川市鬼童町49-3
   電話番号 0944-73-9587
   開館時間 AM9:00〜PM5:00
   休館日 火曜日 12月29日〜1月3日