外村家住宅 (とのむらけじゅうたく)



 琵琶湖の東側、いわゆる湖東と呼ばれる地域は近江商人の発祥地だった場所で、三井・住友・鴻池といった巨大財閥の源流となったところ。伊藤忠や丸紅といった総合商社や西武グループの堤家も当地が発祥地です。近代資本主義社会の礎のような地ですが、元々は天秤一本から行商を始めて全国津々浦々まで行脚し、勤勉に従事し倹約に重んじてコツコツと財を築いた、真っ当なあきんどの里でした。その発祥された場所により、八幡商人・日野商人・五個荘商人と呼び分けられるのですが、特に後発の五個荘は農閑期の百姓が余業で始めたこともあり農村に商家が混在した、近江八幡とは一味違う街並を持つ場所です。その五個荘でも金堂地区は商家が集中した集落で、掘割と板塀で囲み土蔵を並べた屋敷が大小200も並ぶ美観地区。島根の津和野にも似た風情のこの街並は、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。その地区の中心部に豪商だった外村家が並び、近江商人屋敷として公開されています。

 

 外村家は江戸後期の1813年(文化10年)に分家して商売を始めたのがそのスタートで、呉服類の販売により成功して全国に支店を持ち、明治期には全国長者番付にも名を連ねる隆盛を極めた豪商でした。この屋敷は広い敷地に主屋と土蔵が並び庭園が広がり、白漆喰の塀と水路が東南側を走り、南西側を板塀が取り囲むのですが、特に表門の横手に水路の水を敷地内に取り込んだ”カワト”と呼ばれる洗い場があり、いざとなると防火施設としても利用されたようです。

 

 主屋は幕末の1860年(万延元年)に建造された木造二階建てで、屋根は入母家造りの桟瓦葺き。表門を潜り石敷きの延段を進むと主屋の西南隅に小さな玄関があり、中へ入ると土間のニワとなります。このニワの北東側に座敷が連なる構成で、ニワに接する座敷は店舗空間として、奥の座敷は応接間だったようですが、華美な意匠は全く無い簡素な部屋。裏手に仏間があります。

 

 

 店舗空間なので帳場もあり、箱階段も設えてあります。このニワと奥に続くオクニワは通り土間となり、天井を高く吹きぬけて太い梁をかませた、寺院の庫裏のような堅固で力強い空間です。近江商人らしい質実剛健な気風が表れているのかもしれません。
 通り土間の一番奥は平屋建ての台所空間である”ミズヤ”となり、使用人が多かったからか数多くの竃が並んでいます。ここも天井や壁は太い梁が渡された農家の土間のような空間。

 

 

 階の座敷奥は”オイエ”と”オクノマ”が続き、居間として使われた生活空間の場だったようです。”オクノマ”と2階の座敷は数寄屋風の意匠なのですが、修復工事により明治期の姿に復元されたそうなので、当初のものではない可能性が高いようです。

 

 この”オイエ”と”オクノマ”のさらに奥に、1864年(万治元年)に建造された土蔵が続きます。内部二階建てで、箱階段の婉曲した軽やかな手摺が印象的。

 

 この土蔵の隣に離れ座敷の書院があったのですが、2001年(平成13年)に京都の仏光寺に移築されて今は更地になっています。主屋と土蔵を東側から回り込むように庭園が造られており、苔むした地面に飛び石が配され、様々な石灯籠や井戸が点在されています。ここも主屋同様に池や築山など目を引く意匠の無い、簡素で穏やかな構成の庭。

 

 この外村家住宅は外村宇兵衛の邸宅だったものなのですが、この宇兵衛の4代目の娘に婿養子を迎えて分家された外村吉太郎邸が、道路を挟んで隣に建てられています。ここも近江商人屋敷として公開されているのですが、吉太郎の三男である外村繁が作家として活躍したことから記念文学館としても公開されており、奥の土蔵で遺品や原稿等が展示されています。

 

 1907年(明治40年)に分家独立したそうなので、おそらくその頃から大正期にかけて建造された建物なのでしょう、本家の配置構造をそっくり模写した構成で、通り土間に店舗空間と接客空間が連なる形式となっているのですが、座敷は正統的な書院造りとなり、他の部屋も瀟洒な意匠が施されており、本家と比べて大分時代が下ったことの表れと見ることが出来ます。

 

 



 「近江商人屋敷 外村家住宅」
   〒529-1405 滋賀県東近江市五個荘金堂645
   電話番号 0748-48-5557
   開館時間 AM9:30〜PM4:30
   休館日 月曜日 国民の祝日の翌日 12月28日〜1月4日