徳川家松戸戸定邸 (とくがわけまつどとじょうてい) 重要文化財



 千葉大は全国でも珍しく園芸学部を持つ大学で、松戸駅近くの小高い丘の天辺に緑豊かなキャンパスが広がっています。このキャンパスのある一帯は中世には松渡城(松戸城)があった場所で、近くには江戸川がゆったりと蛇行して流れ、眺望がとても良く遠くには富士山も望める絶好のビュースポット。特権階級が館を築くのも御尤もで御座います。その傾向は明治の御代になっても変わらなかったようで、将軍家を退いた徳川家の殿様が隠居所として当地に邸宅を構えており、千葉大のキャンパスのお隣に今でも往時の姿でそっくりそのまま残されています。

 

 ここに楽隠居を決め込んで御屋敷を構えたのは、最後の将軍徳川慶喜の弟であった徳川昭武。最後の水戸藩主でもあった昭武は1883年(明治16年)に家督を息子に譲り、翌年ここに自邸を建設して趣味の陶芸・写真撮影・狩猟に没頭して、余生をのんびりと暮らしたようです。でも余生と言っても29歳で隠居ですから、どちらかというと高等遊民のようなもので、殿様が隠居すると趣味の陶芸に興じるというのは平成の世でも変わらないようですね。
 その規模はさすが将軍家というか総面積2.3haにも及ぶそうで、現在は松戸市に寄贈されて「戸定が丘歴史公園」として公開中。中核となるのは邸宅の戸定邸で、幾つもの棟が複雑に組み合わされた、平屋建て一部二階建てによる大規模な近代和風建築です。明治初期における上層階級の和風住宅建築がまるごと現存されているのはとても珍しいそうで、国の重要文化財の指定を受けています。

 

 平面構成で見ると玄関棟から奥へと座敷棟が連なりますが、さすが殿様らしく玄関横手には8畳間が直列に並ぶ「使者の間」があり、ここで来訪者のお付きの者が待機していたようです。四民平等となっても殿様に面通り出来るのは一部の者ということなのでしょうか。内部の意匠は素っ気ないとてもシンプルな座敷が並びます。

 

 

 玄関棟から奥へ渡り廊下が延ばされますが、その途中の左手に内蔵があります。桟瓦葺切妻屋根による二階建ての土蔵造りで、刀剣類や古文書が収納されていたようですが、今は徳川慶喜の孫である高松宮喜久子妃の婚礼道具(長持)が展示されています。

  

 渡り廊下の先は客室である表座敷棟。屋根が寄棟造りの桟瓦葺で銅板葺の深い庇が取り回してあります。採光もあるのでしょうが眺望を重要視しているようで、南西側に広く窓が取られて主室も南西隅に置かれおり、遠く富士も望める絶景が客への最高のおもてなしということなのでしょう。渡り廊下からこの棟に入るとまず一番に目につくのはこの庭への眺めです。ちなみに庭園は千葉県指定名勝。
 内部は10畳の主室と12畳半の次の間、それに北側に8畳間が3連で並びます。主室は長押を嵌めて天袋を付けた書院造で、使者の間とは明らかに違う設え。裏側の8畳の小書院は書斎として当主が使っていたようです。

 

 

 

 ここから平面構成が少々複雑になり、表座敷棟の北東隅から「衣装の間」「化粧の間」で構成される中座敷棟が繋がり、さらに「化粧の間」の先には「八重ノ間」と呼ばれる8畳間と6畳間で構成される奥座敷棟が続きます。中座敷棟の東側には二階建ての台所棟も連なり、玄関棟も合わせて中庭が造られます。
 「八重ノ間」は後妻の八重の為に造らせた部屋で、丸窓が印象的な少しくだけた座敷。

 

  

 この奥座敷棟の北東隅から渡り廊下で湯殿があります。洗い場の広さの割には湯船は本当に狭く、湯船につかるというよりは皇室のように被り湯だったのかもしれません。お湯を沸かすということが今よりも大変な時代だったでしょうし。

 

 奥座敷の北側から渡り廊下で続くのが最奥の離座敷棟。当主の生母である公家の万里小路睦子(号は秋庭)が暮らしていた部屋で、「秋庭ノ間」と呼ばれています。表座敷同様に南面に8畳間が並びますが庭の木立によって柔らかく陽射しが逓減されて、落ち着いた雰囲気が漂います。「八重ノ間」でも見られる丸窓や欄間の蝶のデザインに、女性向けの意匠が織り込まれているようです。

 

 

 敷地の大半は園地化されており、戸定邸の対面には慶喜・昭武兄弟の遺品を展示する戸定歴史館と、公共茶室の松雲亭があります。そして桜も多く植えられており、オヤジ酒宴とは無縁で近所の保育園の児童達もお花見を楽しんでいたりします。

 

 



 「戸定邸」
   〒271-0092 千葉県松戸市松戸714-1
   電話番号 047-362-2050
   開館時間 AM9:30〜PM5:00
   休館日 毎週月曜日 年末年始