哲学堂 (てつがくどう)



 駅名と土地名が一致しないパターンがわりとよくあるもので、例えば江古田という住居表示は中野区にあり、練馬区内の西武池袋線江古田駅からは約1Kmも離れていて、かえって西武新宿線の沼袋駅の方が400m程と近いぐらいです。この近辺一帯をひっくるめて江古田と呼ばれていたものが、住居表示が細分化されて改名されてしまい、とても矛盾した状況になっているわけで、他にも東武伊勢崎線の小菅駅や品川区内にある目黒駅に、本郷二丁目にある丸ノ内線本郷三丁目駅と探せば色々と出てきます。
 でその旧江古田地区、戦時中までは中野区から旧板橋区(現練馬区)まで広い範囲を占めており、現住居表示で江古田・江原町・旭ヶ丘・松ヶ丘の一部まで及ぶ広さ。戦前は郊外の農村地帯でしたから土地が余っていたのでしょうかね様々な施設が造られており、日大芸術学部や結核患者の療養施設だった国立療養所中野病院などが開かれ、あの昭和の国民的歌手だった三波春夫の豪邸もありました。松ヶ丘一丁目の妙正寺川沿いには哲学堂公園もあり、周辺が宅地化されて面影も失われてしまった、戦前の東京郊外の田園性を感じさせる場所でもあります。

 

 この哲学堂を造ったのは仏教哲学者だった井上円了。東洋大学の創設者としても知られる円了博士が1899年(明治32年)に手狭となった大学の新校舎予定地として購入したのが始まりで、元々は和田山と呼ばれた川沿いの里山でありかつては遠くに富士山も望める景勝地でした。大学の方は諸事情により移転されませんでしたが、円了博士はここを精神修養の道場のような空間にすることを発案し、東洋哲学にまつわる様々な建造物や石造物を各所に配してそれらをオリエンテーリングのようにして巡る、テーマパークのような施設を考えたようです。
 まず1904年(明治37年)の四聖堂の建設から始まり、約一万五千坪の広大な敷地に次々と諸施設が造られて、1918年(大正7年)の硯塚の設置によりほぼ現在の形が完成しています。その間に設置された点数は77あり、これを円了博士の指定する順番に廻ることによって哲学が理解できるというシステムで、「哲学堂77場」と命名されています。では順番に見て行きましょうか。
 まず最初に入口に立つ門柱が、向かって左が「真理界」、右が「哲学界」。円了博士曰く「これより先の境内が、哲学上宇宙の真理を味わい、かつ人生の妙趣を楽しむところである」だそうです。どうでもいいですけれど上部が少し傾いていますけれど。

 

  

 この一対の門柱の先に正門にあたる「哲理門」が御目見え。門の左右に天狗と幽霊の彫刻が置かれており、別名「妖怪門」とも呼ばれています。なにしろ「妖怪博士」の異名をとった方ですから、民間にはびこる非科学的な迷信・俗信の研究に熱心で、妖怪や幽霊を不思議現象として捉えて科学的に解明して、大衆の妄想を取り払うことに努力したようです。ここでも「物質の世界の不思議は天狗、精神の世界の不思議を幽霊」と喝破しており、この門を潜ることによってそんな下らん妄想を捨てよということになるのでしょうか?この門の並びに今度は「常識門」があり、これでまた一回外へ出ます。

 

 この「常識門」を出た先にあるのが、木造平屋建ての「髑髏庵」。なんともおどろおどろしい名前ですが、精神上の死を形容したものだそうで、ここで俗界の汚れにまみれた心を消滅させて、まっさらな状態にするという意味だそうです。ここが受付場所となります。
 そしてこの「髑髏庵」から渡り廊下の「復活廊」を経て向かうのが木造二階建ての「鬼神窟」。「髑髏庵」でリセットされた精神が「復活廊」で蘇生し、俗界を離れて霊的な存在になっているので、霊魂の世界が住む「鬼神窟」に入るということだそうです。今は区の集会所として利用されていますし、秋の特別公開の際には抹茶の呈茶もあります。

 

 この後いよいよ哲学堂内の主要施設を巡ります。「哲理門」と「常識門」の先は開けた広場となり、この広場を取り囲むように建造物が建ち並びます。ちなみにこの広場も「時空岡」と名付けられ、哲学の時間・空間を表すものだとか。
 まず最初に訪れるのが「四聖堂」。園内で一番最初に建てられており、屋根が宝形造りの桟瓦葺による木造平屋建てで、一見すると阿弥陀堂のような外観ですが、四方正面となっているのでどの方向から見ても同じマスクです。内部は中央に炉が切られており、あとは全て畳敷きで柱や壁はありません。この炉の上に「唱念塔」と呼ばれる石柱が置かれており、「南無絶対無限尊」と刻まれています。天井は丸垂木が放射状に張られ、中心には額が吊るされて、それぞれ孔聖(孔子)・釈聖(釈迦)・瑣聖(ソクラテス)・韓聖(カント)と書かれています。歴史上重要な4人の哲学者を選び奉崇した建物で、建物の由来もそこから。天井の丸垂木は宇宙の神髄から発する光を表現しているとか。後年には釈迦涅槃像も安置されています。

 

 

 次に訪れるのが「六賢台」。園内で一番目立つこの丹塗りの塔は、「四聖堂」の次に建てられた建物で、1909年(明治42年)に建造。一辺が一間による正六角形の平面を持っており、トータルでも名に因んでか周囲六間となっています。外観は二層ですが内部は三層となっていて、一・二階は梯子のような急階段でほぼ占められ、三階は各方向とも窓がガラス張り。天井には日本の聖徳太子と菅原道真、中国の荘子と朱子、それにインドの龍樹と迦毘羅と、東洋の六人の賢人が選ばれてその肖像画が吊るされており、建物の命名もそこから。
 小さなベンチも付けられていてまるで展望台のようですが、ガラスが古くて汚れており、外の風景もボヤッとしてます。

  

  

 ここからはコースは一旦建造物群から離れて園内周遊ルートに入ります。この建造物群は小高い丘の頂上にありますがすぐ側を妙正寺川が流れている為に南側は急斜面となっており、川へ向かって降りる道すがらや川沿いに、また一回りして上がってくる道の傍らに様々な石造物が置かれています。
 「六賢台」のすぐ足元から急な階段で下りルートが始まり、途中「筆塚」を過ぎて「三字檀」の前へ降り、そこから川沿いに池庭の「唯物園」「唯心庭」を巡って再び丘の頂上へ向かって登りルートが始まり、から傘お化けのような「演繹観」を経て元の「時空岡」に戻ります。
 特に奇妙な物件として「唯物園」にある「狸燈」と、「唯心庭」にある「鬼燈」。狸は人心に宿る騙す心を、鬼は人心の悪念や妄想を表しているそうで、それぞれ腹部や頭部に燈籠があります。(今は無い)

  

  

 再開する建造物群探訪の後半戦は「絶対城」から。大正時代に入ってから(大正4年)建造されたもので、そのせいか明治期の「四聖堂」や「六賢台」の寺社建築を思わせる外観とは異なる風貌です。屋根が寄棟造りの桟瓦葺による木造二階建てで、外壁に鉄板が張られています。内部は中央部が吹き抜けとなっており、その周囲に回廊が取り付く構成で、正面の壁上部に「絶対城」の扁額が、下部に「四聖堂」で祀った4人の哲学者の姿を彫り込んだ聖哲碑が置かれています。
 ここは図書館で、なんでも円了博士曰く「万巻の書を読み尽くせば絶対の境地に到達する」ことから命名されたものとか。江戸期の古書が数万冊収蔵されていたようですが、現在は東洋大学に移されているようです。

 

 

 次に訪れるのが、隣にある「宇宙館」。こちらは「絶対城」より二年早く1913年(大正2年)に建造されており、外観は屋根が宝形造りの桟瓦葺による木造平屋建て。内部は二重構造になっており、45度傾けた形で「皇国殿」という八畳敷きの部屋があります。「絶対城」が図書館ならこの「宇宙館」は講堂。「皇国殿」以外は床が無く土間となり、ここに椅子を置いて「皇国殿」で講義を行っていたのでしょう。
 この「皇国殿」は円了博士の当時の指向性が色濃く反映されており、どうも戦前の国粋主義に共鳴していたようで、哲学は宇宙の真理を研究する学問であり、同時に社会国家の原理を講究する学問でもあるから、世界万国中で最も美しい国日本を表す為に、「皇国殿」を「宇宙館」に内包させたとか。宇宙の中心は日本であるというこなのでしょうね。ナショナリズム真っ盛りの1940年(昭和15年)には聖徳太子尊像も置かれています。

 

 この次が隣にある「三学亭」。神道・儒教・仏教各ジャンルの最も著述の多い三人として、神道は平田篤胤、儒教は林羅山、仏教は釈凝然を選んで祀る建物で、三角形の屋根を三本柱で支えた三づくしの意匠です。天井にはその三人の石額が掛かっています。このあたりは楓が多く、晩秋の頃には紅葉に包まれます。
 この「三学亭」もそうですが、六角形の「六賢台」や正方形の「四聖堂」など幾何学的なモチーフを纏う物が多く、国粋主義者でありながら西欧のキュビズムの影響が見られるあたりが面白い所です。

 

 一番最後に訪れるのが「無尽蔵」。1915年(大正4年)に建造された木造二階建ての建物で、外観は同時期に建てられた「絶対城」と似ています。ここは陳列所で、円了博士が内外周遊した際に蒐集した物品を並べていた施設ですが、妖怪棚や珍奇棚などあったように多分に秘宝館的な面が強かったようですね。陳列品は現在は区の歴史民俗資料館に保存されています。
 かように哲学堂といってもアカデミックなものとは無縁の摩訶不思議な建造物や石造物が多く並び 中にはこじつけとしか思えないようなポイントも数多く、さらには戦前の見世物小屋的な娯楽性も加味されています。これは取っつき難いと思われている哲学を、より広く一般大衆に知ってもらおうという円了博士の意図なのでしょう。元々越後の浄土真宗(東本願寺派)の寺院に産まれた方なので、庶民階層向けの宗派と言うこともあってか大衆に目を向ける傾向があることにも一因なのでは。
 古建築の内部は通常非公開ですが、毎月第一日曜日と春秋に特別公開されています。古建築群は区の指定文化財に、敷地が東京都の名勝に指定。

 

 その円了博士の墓所は、新青梅街道を挟んで哲学堂公園の北隣にある蓮華寺にあります。こちらは日蓮宗のお寺。晩年になっても諸国を行脚して講演会を行っていたようですが、1919年(大正8年)6月5日に中国の大連で講演中に脳溢血で倒れ客死しています。享年61歳。お墓は名前の由来でしょうか井桁の上に円盤を置いた形で、このあたりにも博士のユーモラスな面が出ているようです。

 

 

 この蓮華寺のお隣にもちょいとばかり風変わりな物件が。旧東京市水道局の野方配水塔で、1929年(昭和4年)に建造された近代化遺産です。現在は役目を終えていますが、国の登録有形文化財も受けているので周囲を園地化して保存されており、「みずのとう公園」として子供たちの遊び場となっていますね。

 

 この界隈でお薦めは、パン・洋菓子の「ロイスダール」。明治期に創業された百年以上の歴史を持つ老舗の洋菓子屋の本店がここで、ショコラやアマンドリーフ等が定番商品。一階はパンや洋菓子の販売で奥には喫茶コーナーもあり、二階はカジュアルなフレンチレストランとなります。

 



 「哲学堂公園」
  〒165-0024 東京都中野区松ヶ丘1-34-28
  電話番号 03-3951-2515
  開園時間 4月〜9月 AM8:00〜PM6:00
         11月〜3月 AM9:00〜PM5:00
  休園日 12月29日〜31日