適塾 (てきじゅく) 重要文化財



 「おけいはん」の京阪電車の始発駅は淀屋橋駅、この界隈は官公庁やオフィスビルが林立するビジネス街で、日本生命の本館や住友グループのビルが多いことから、別名”住友村”なんて呼ばれていたりします。北浜には大阪証券取引所もあるので、東京で言うと”三菱村”の丸の内と三井村の”日本橋”が合体したような界隈。でもその昔はあきんどの町大坂の中心だった船場の北側にあたり、土佐堀川沿いで船運の便にもよく、対面の中之島に御贔屓だった諸国藩の蔵屋敷が多かったことから、豪商淀屋辰五郎を始めとする大坂商人の屋敷が立ち並んでいました。今は戦災などで街並が大きく変貌しましたが、ビルの谷間にポツンと一棟だけ、江戸期の町屋が遺されています。幕末の蘭学者緒方洪庵の居宅だった建物で、大阪大学が管理し公開しています。
 文部科学省の表記だと「旧緒方家住宅」となっているのですが、一般には「適塾」として知られている建物です。洪庵はこの地に住む前は同じ大阪の船場にある瓦町で適塾を開き、1843年(天保14年)に豪商天王寺屋忠次郎からこの家を購入し引っ越してきました。1792年(寛政4年)に一帯で大火があった後の建造と見られ、洪庵はこの家を大改造して住宅兼診療所兼塾として使用。もとは正面6間奥行6間ほどの建物を奥行半分程度に縮小し、その後に今度はトータル22間のまさしく鰻の寝床状に、背の高い台所棟や座敷棟を増築した構成で、幕末に京阪地区で多く建てられた”表屋造”という様式の町屋です。

 

 外観は木造二階建ての屋根は切妻造りの桟瓦葺。正面に3連の虫籠窓を開けて、格子造りの典型的な町屋の顔。内部は通り側の表屋が診療所と塾だった場所で、増築された台所・座敷棟が家族の生活空間でした。この表屋は1階の玄関土間が町屋にしては広く、式台を設けるのは医者の家に多い構成です。玄関奥には6畳の座敷が2つ続き、ここは教室として使われていたようです。
 2階は32畳の大部屋と10畳の小部屋があり、それぞれ塾生たちの寝室と勉強部屋でした。ここで橋本佐内や大村益次郎、それに福沢諭吉といった幕末から明治維新にかけて活躍した門下生が寝泊りし、勉学に励んでいたわけです。この適塾は後年洪庵が江戸へ赴き、息子の拙斎が跡を継いで続けられましたが、1868年(明治初年)に廃止になり、その後緒方家が診療所として住んでいましたが、1942年(昭和17年)に大阪大学に寄贈され管理されているわけです。

 

 この表屋の土間を玄関に向かわずそのまま真っ直ぐに奥に抜けると、丈の高い台所棟に至ります。この台所は通りニワと呼ばれる細長い土間空間で、天井は高く吹き抜けて幾層にも組まれた梁組を見せるのですが、農家建築のような野太い梁を架けた豪壮なものと違い、時代が下って幕末のせいか比較的均等に削って幾何学的に組まれた、高山や金沢の町屋と同様の構成美を見せています。おくどさんや流し、井戸が順番に並び、板の間では塾生が食堂として使っていました。

  

 台所棟の脇に落ち棟で座敷棟が続きます。この座敷棟と表屋との間は小さな中庭があり、生業スペースと住居スペースとの程好い緩衝地帯となっている巧みな構成です。ギッチギッチに部屋を繋げるよりも、こういった抜きのスペースを入れて、ちょっとした緑や外光・空気を上手に取り入れることの方が精神的にもストレスを軽減させ、都市生活には有効なのでしょう。
 この中庭の一角に洪庵の書斎があり、6畳ほどの小間で円窓も設けた数寄屋風の洒落た造り。ここでしばし庭木を眺めながら、読書の疲れを癒していたのでしょうか?この書斎はおさまりが好いせいか非常に居心地が良く、この中庭と書斎のある眺めは、この建物の最大のビューポイントです。

 

 

 書斎の奥は8畳の応接間と12畳半の客座敷による座敷棟。客座敷は畳床の書院造りの座敷ですが、あまり凝った意匠は無くシンプルな造り。南側は縁側越しに庭が広がり、石灯籠が点在する純和風の穏やかな眺めで、庭奥に土蔵と納屋が並びます。大都会大阪のド真ん中の、ビル街の谷間にこのような静かで落着いた和の空間がそのままエアポケットのように存在するのは、奇蹟に近いです。国の史跡と重要文化財に指定されています。

 



 「適塾」
   〒541-0041 大阪府大阪市中央区北浜3-3-8
   電話番号 06-6231-1970
   開館時間 AM10:00〜PM4:00
   休館日 月曜日 祝日の翌日 12月28日〜1月4日