田淵庭園 (たぶちていえん)



 播州赤穂の海っ縁に、御崎という海水浴場があります。温泉も湧き出る保養地で、岩礁帯の岬からは遠く家島諸島や小豆島も見渡せるパノラマビューの景勝地。岬の高台には伊和都比売神社があり、海に向かって鳥居が立つあたりは、古来から航路上のチェックポイントとして重要なスポットだったのでしょう。夕暮れ時には鳥居の向こうに瀬戸内の穏やかな風景が広がります。
 そんな風光明媚な土地柄か江戸期からアッパークラスの方々が邸宅を構えたようで、この御崎の北西に田淵邸という江戸期の塩田王の大邸宅があり、その田淵家の蒐集した古美術品を公開する田淵記念館という美術館もあったりします。

 

 

 田淵家は元々隣村の尾崎で製塩業を営んでいましたが、江戸初期の正保年間に藩主浅野家が御崎の湾内を埋め立てて塩田化する事業を始め、その際に資金と労力を田淵家に依頼したのが当地に赴いたきっかけ。今でもそうですが赤穂と言えば製塩のブランドで、その事業により莫大な収益を得て大庄屋となり、その財力を思う存分に注ぎ込んで今に残る大邸宅が完成したいうわけです。その陣容は海を望む傾斜地に書院造・茶室・数寄屋造りを次々と建造し、その周囲を意匠を凝らした美しい庭園を造営したもので、個人の庭園なのに国の名勝に指定されているほど。普段は非公開ですが、晩秋の頃に2日間だけ一般公開されます。

 

 この邸宅が整ったのが江戸中期の宝暦年間から寛政年間にかけてのことで、約30年ほどの月日に田淵家歴代の3人の当主がバトンを渡すように次々と増築を繰り返しており、八条宮親子でリレーされて完成した桂離宮のような話です。なんでも四代目の時に御殿様が来訪されることになり、迎賓用の施設として海を見下ろす高台に数寄屋風の建物を造ったのが始まりだそうで、その後茶室や書院を順次建造していったとか。つまり眺望を楽しむ東屋がメインにあって、その後関連施設を整えていったというあたりは、修学院離宮のスタイルにも似ています。桂離宮・修学院離宮は共に数寄屋建築の最高峰と呼ばれる存在で、おそらく江戸中期にもなると北前船の整備により瀬戸内沿いに京文化の流入が顕著になり、特に赤穂は大坂に比較的に近いことから洗練された京文化の影響が強くなって、離宮造営のコンセプトが受け継がれていったのかもしれません。

 園内には海側の道路沿いに続く黒塀に開けられた表門か、山寄りの小径側に開けられた裏門の二ヶ所がありますが、以前は殿様向けに立派な御成門が海側にあったようで、昭和初期に道路拡張の為に撤去されたとか。その御成門のあった場所の内側には石灯籠と井筒があり、この井筒は織田有楽斎が作った国宝茶室「如庵」の露地にあるものと同型のもの。園路を進むと梅見門が現れ、門を潜ると書院の庭先に出て、沓脱石の前に大きな平たい石が置かれています。この石の上に篭を乗せて殿様は縁側から書院に上がるという趣向。この門の内側は桂離宮の御幸道に見られる”霰こぼし”となっており、このあたりも桂離宮の影響でしょうか?

  

 

 その書院は1792年(寛政4年)に六代目九兵衛・政俊によって建造されたもので、外観は屋根が入母屋造りの桟瓦葺で軒に深い檜皮葺の庇を伸ばしてあります。修学院離宮で言うと下御茶屋の寿月観にあたるわけですが、その寿月観同様に庭園の上部に広がる茶屋へ向かう為のベースキャンプ的な施設で、まず最初にここで一服付けてからおもむろに上の庭へと向かっていたのでしょう。縁側に障子が連なる外観は、やはりこれも桂離宮の書院群からの影響でしょうか?

 

 

 その桂離宮と言えば古書院前の月見台が有名ですが、ここでも縁側に同様の竹縁による月見台があります。前には小さな池があるので、そこで月を写して楽しんでいたのでしょうが、桂離宮に比べるとかなりスケールダウンしています。

 

 書院の内部は主室である四畳半の御成の間に十畳の書院造の座敷が二つ並び、明治期に増築された茶室「枕流亭」等が並びます。上段の間である御成の間は周囲を入側が走り、あの大きな篭のせの石がある縁側の前まで続きます。ここだけ殿様専用の別仕様。
 この御成の間以外の座敷は各部屋とも襖絵が描かれており、狩野派の絵師によるものだとか。

 

 

 このあたりは海沿いということもあってか流紋岩が露出しており、その岩盤を刳りぬいて池や滝を造った庭園が書院の前に広がります。石積みの五重塔や石灯籠も点在しており、江戸中期に流行した蘇鉄が多く植えられていることもあってか、石の多さと相まってどこかエキゾチックな南方的な趣があります。池に架けられた一枚岩の石橋を渡って上の庭園へ向かいます。

  

 飛石の急な階段を登っていくと、右手から裏門から延びる園路と合流します。この裏門は殿様がお忍びで来た時用のものとか。ここに樹齢600年の大銀杏があり、その袂に腰掛と雪隠があって、反対側に土塀と中潜りが開けられています。さらにこの内側にはもう一つ腰掛が置かれてあり、ここで茶室の外露地と内露地が構成されていることがわかります。
 五代目九兵衛・政武が表千家家元と姻戚である久田家に茶道を師事していたとかで、この外腰掛・中潜り・内腰掛における露地の構成は表千家家元の不審庵に似ています。

  

 

 その内露地の奥に草庵風茶室の「春陰斎」が佇んでいます。この茶室を含む露地一帯は五代目当主の時期に設えたもので、久田家の分家である両替町久田家の久田宗参に設計を依頼したようです。書院の建造よりも30年程早く整えられており、1764年(明和元年)のこと。茅葺屋根に椹による柿葺の庇を取り回した外観で、南西隅に躙口が開けられ、庇の突上窓やその下の土壁には3つの下地窓が開けられた、正面から見ると少々煩い構成。
 妻部に掲げられた扁額は江戸中期の歌人として知られる大納言日野資枝の手によるもので、席の命名も「はるかげの さかえを見せて幾千世と まつにちぎりもむすぶいほかな」の歌から付けられたとか。

 

 

 内部は二畳台目の平面構成で、躙口側に一畳分の板の間があるユニークな内容。おそらく相伴席で、ここに給仕口があることから、藪内家の燕庵と同様の趣向であると思われ、本席と相伴席との間に襖二枚を入れれば二畳台目の席と使え、人数が多ければ三畳台目として使えるユーティリティな造り。
 南側に下地窓が3ヶ所と突上窓があるせいか非常に明るく、躙口の横にも連子窓があり袖壁にも下地窓が開けられている等、窓の多い茶室でもあります。
 床の間には席名の由来となった日野資枝の軸が掛けられています。

 

 大徳寺垣に囲まれた内露地には腰掛以外にも蹲踞や井筒があり、正統的な茶庭が造られています。書院周辺の開放的な池泉回遊式とは対照的な造り。

 

 また外露地も土塀や大徳寺垣によって巧妙に仕切られており、その間を飛石や延段が各方向に分けられて、複雑な構成が造られています。崖上になった敷地の中間部分で、ここだけ細長く平地になっていますが、土塀や垣根で視界が遮られているので眺望はありません。これがこの先の茶屋の仕掛けにもなっています。

  

 外露地の南側にあるのが二階建ての「明遠楼」。屋根が茅葺の入母屋造りによる園内で一番古い建物で、四代目市兵衛・春元が殿様の来臨に合わせて宝暦年間(1751年〜1764年)に建てた数寄屋風の茶屋です。海を見下ろす高台にしかも二階建てということからその眺望の素晴らしさは特筆もので、修学院離宮の上御茶屋と同じコンセプトのもの。
 当初は地元の儒学者の赤松滄州が「嘯風楼」と名付けたようですが、1873年(明治6年)に江戸中期の儒学者だった伊東東涯の筆による「明遠楼」の扁額を入手したことから変更されています。確かに遠くまで明るく風景を見渡せるこの茶屋には相応しい名前。

 

 一階には四畳半の茶室と水屋・寄付があり、外露地の中潜りの反対側から進みます。飛石沿いに自然石で組まれた滝式の蹲踞があり、その先に濡れ縁状の腰掛待合が設けられ、その隣に刀掛けと貴人口が開けられています。この貴人口の前の空間は国宝茶室の如庵に似ています。
 おそらく当初はここしか茶屋がなかったので、この一角だけで露地が全て完結されており、またお忍びで来た際にもここで充分対応できるというわけです。刀掛けや貴人口が設けられているのも武家用のスタイルで、対面の春陰斎の文人好みとは対照的。
 茶室は裏千家家元にある高名な「又隠」の写し。但し躙口ではなく貴人口が開けられ、天井が又隠では椹長扮板を縦長に張るところを網代に張った点が異なり、二階建てとなる為に窓側が掛込天井にもなっていませんし、また点前側の壁に風炉先窓があるのも違います。利休由来の又隠の写しらしい、やや薄暗い侘びた風情の茶室です。

 

 

 二階へは外露地から東側に延びる石段を登って直接中へ入ります。中は四畳半台目と三畳台目の座敷が並び、それぞれ三畳の玄関と水屋による構成。この玄関の間に伊東東涯の扁額が掲げられてあります。
 殿様向けの宴席用ということかくだけた数寄屋風の意匠で、丸窓・面皮付の床柱・茄子の図案による襖の引手・金箔の襖に金泥で書いた書など、各所に見られる凝った造形が見所。奥州の多賀城にある碑の拓本も貼られているのですが、この多賀城は塩釜に近く、鹽竈神社もあることから製塩に関係があるので、塩田を見下ろすこの座敷に貼られたのでしょうか?

 

  

 北側はベランダ状に縁側があり、その外側に開閉式の突上窓が軒下に釣下げられています。普段は下に降ろして雨風を防ぎ、座敷を使う日中は羽根を上げるように棒で支えて窓を開けます。修学院離宮の上御茶屋の窮邃亭と同じ趣向のもので、やはり眺望を楽しむ為に考案されたものなのでしょう。視界が遮るものも無くフルオープンワイドで広がる利点が特徴。
 この建物へ入るまでは海側の視界が遮られている為に、座敷の中へ入って広がるオーシャンビューのワイドスクリーンはインパクトがあります。この高台のある敷地のすぐ西側はかつては広く塩田が広がっていたそうで、その塩田の風景とその先に広がる小豆島を始めとする美しい瀬戸内の島々を、この二階の座敷に座って愉しんでいたのでしょう。塩田は今は海浜公園に姿を変えています。

 

  



 「田淵庭園 田淵記念館」
   〒678-0215 兵庫県赤穂市御崎314-10
   電話番号 0791-42-0520
   通常非公開 11月下旬に2日間公開