角屋 (すみや) 重要文化財



 京都駅から山陰線に乗って一つ目の駅が丹波口駅、その丹波口駅の南東部に島原と呼ばれる地域があります。この島原はいわゆる花街だった場所で、京都市内でも有数の享楽場として栄えた所でした。今では庶民階級の住まう穏やかな京の下町の一つとなっており、往時を偲ばせるものは入り口の大門と二軒の建物ぐらいでしょうか。大門を入って横丁右手の路地奥に、置屋だった輪違屋さんが残されています。この輪違屋は非公開。

 

 大門をそのまま真っ直ぐに突き進むと、揚屋だった角屋があります。揚屋とは太夫や芸妓を置かず、置屋から太夫を呼んで宴会を催す店で、今で言う料亭のような場所。この角屋は京都でも格式の高い揚屋だった店で、数々の文人墨客や、幕末期に勤皇の志士や新撰組のメンバーも度々来参した場所としても知られています。外観は二階建ての町屋風の格子が並ぶ粋な造りですが、何よりも正面の桁行が16間にも及ぶ長大さに圧倒されます。

 

 島原は元は市中心部の六条三筋町にあった花街が、1640年(寛永17年)に官命により急遽今の場所に移転して出来たアダルトな社交場で、島原の乱のように移転が慌ただしかったことから命名されたそうです。なんでも所司代が堅物の代官に変わることから、中心地から避難した為とか。この角屋は揚屋町創設第二期の1652年以降に建造が始まり、遅くとも延宝年間(1673年〜1680年)までに主要部分が整い、江戸後期まで拡張整備されていった建物群で、今に残る唯一の揚屋建築の名品として敷地内全部の建物が国の重要文化財の指定を受けています。1985年(昭和60年)まで茶屋として業務を行っていましたが、1998年から「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されています。
 入口を潜ると石畳の前庭となり、正面に台所土間の中戸口が開かれています。この中戸口の両脇にエンジュの木が植わっているのですが、このエンジュは木ヘンに鬼と書くので、これより異界へと足を踏み入れることの象徴とも読み取れます。この前庭には、紅殻色の壁に出格子の窓が並び、中戸口の上に櫛形窓が開けられ、行灯や車井戸が設置される、まるで歌舞伎のセットのような趣です。遊興の場としてのプレリュードをなす場所なので、このような演出性の強い空間が作り出されたのでしょう。右に曲がると式台付きの玄関になります。

 

 

 玄関入ってすぐ右手にある部屋が網代の間。その名の通り天井板を網代組に設えた部屋で、長押や棹縁に北山杉が使われています。1781年(天明元年)に増築された部分で、採光が乏しく壁が紅殻色のせいかとても薄暗く、艶かしく妖しい魅力を放っています。

 

 廊下を進むと大座敷の松の間があります。庭に面している部屋のせいか網代の間に比べると明るい部屋で、庭に臥竜松があることに呼応して松の間と称しています。ここも1781年(天明元年)に増築された部分ですが、1925年(大正14年)に焼失し翌年再建されました。

 

 この松の間の前が主庭で、臥竜松に隠れるようにして曲木亭と清隠斎と二つの茶室があります。それぞれ趣が異なるユニークな茶室で、利休の求道的な茶道とは正反対のスタイルです。

 

 一階の座敷部はこの二間だけで、二階部に贅を凝らした座敷部が並びます。部屋全体に青貝の螺鈿を嵌め込んだ幻想的な「青貝の間」、緞子張りの襖に七宝の釘隠や亀甲紋の地板などゴージャスな工芸品で彩られた「緞子の間」、天井に58枚の扇が嵌め込まれた「扇の間」など、各部屋とも洗練された粋な数奇屋意匠で統制されて、部屋ごとに固有のテーマを備えた演劇的な空間が続きます。この二階部こそ角屋の真骨頂なのですが、前日までに予約が必要で追加料金(+¥800)もあり写真撮影も禁止されています。

 

 玄関入って左側は台所土間となっています。土間と帳場との境に大きな大黒柱を据えて建物を支え、土間を高く吹き抜けて上部に細い梁を組み、天井に気抜け用の天窓が開けられています。大きな竈が印象的です。畳敷きの台所は店の心臓部とも言うべき空間で50畳ほどの広さがあり、帳場や箱階段も設えてあります。

  

 



 「角屋もてなしの文化美術館」
   〒600-8828 京都府京都市下京区西新屋敷揚屋町32
   電話番号 075-351-0024
   FAX番号 075-351-0026
   開館時間 3月15日〜7月18日 9月15日〜12月15日 AM10:00〜PM4:00
   休館日 毎週月曜日 12月16日〜3月14日 7月19日〜9月14日