崇福寺 (そうふくじ) 国宝



 長崎市内を縦横無尽に走る路面電車に乗り、市中一番の歓楽街である思案橋を過ぎると、正覚寺下という街外れの川縁に寂しげにポツンと佇む終着駅に連れてってくれます。駅前の寂びれに寂びれきったスローな商店街を抜けて、住宅街のか細い路地を北に進むと今度は風頭山麓に連なる寺町に出くわし、中華飯店のような門構えの寺に遭遇します。ここは長崎四福寺の一つである崇福寺という黄檗宗の寺院で、在留中国人向けに創建されたいわゆる唐寺。長崎は横浜・神戸と並んで華僑の多い町で、それもそのはず江戸期の鎖国時でも長崎限定で交易が許可されていたことにより次々と渡来し、17世紀後半には市内の人口の6人に1人は在留中国人というほどの数の多さでした。代々に亘って居住する唐人の生活様式や風習が浸透し、さらには幕末以降に西洋人居留地も誕生したことから、長崎独特のコスモポリタンな異国風の文化が形成されていったというわけです。この崇福寺も江戸初期に福建省出身の商人達で創建された寺院で、別名「福州寺」とも呼ばれています。竜宮城スタイルのこの門は江戸後期の1849年(嘉永2年)に建造された三門で、唐人ではなく日本人の工匠が手掛けたせいか、その中国趣味はかなりデフォルメされてドギツイ意匠。国重要文化財指定。

 

 この崇福寺は、1629年(寛永6年)に長崎在留の福建省出身の貿易商が、故郷の超然禅師を招聘して開山したのがその由来で、寺内は風頭山麓の南面傾斜地にへばりつく様に作られており、その伽藍は複雑に屈曲してコンパクトに配置されています。三門を潜って長い石段を屈折して登ると行く手を遮るようにして現れるのが第一峰門。このあたりの配置構成は同じ四福寺の一つである聖福寺と同じパターンなのですが、この門は当初は三門として建造されていたもので、国宝に指定されています。

 

 奇怪な竜宮城スタイルの三門は日本人が手掛けたものですが、この第一峰門は部材を全て中国本土で造り、中国人工匠の手によって組み立てられた正真正銘の中国建築で、四福寺の一つ興福寺大雄宝殿と同様のパターン。1694年(元禄7年)に寧波(ニンポー)で切り出され、翌春に船数隻に分載して当地に運ばれたもので、1696年(元禄9年)に建造されています。形式は小振りな四脚門で屋根が入母屋造りの本瓦葺とスタンダードなものなのですが、何と言ってもその屋根を支える構造体が独特で、一本の肘木の上に斜めに三方向に肘木を伸ばし、さらにその上に肘木を三方向に伸ばすのを繰り返すという複雑な斗栱で構成されており、夥しい数の肘木が密集して盛り上がりボリューム感を出す珍しい構造。この斜めに出る肘木は本家中国の華厳寺大雄宝殿や善化寺三聖殿で見られる手法だとか。また軒下の垂木は平たく扁平で、極彩色の吉祥模様が描かれているのも異色。

  

 装飾性の豊かさも特筆物で、鮮やかな丹塗りをベースに柱上の藤巻や瑞雲の紋様に、門扉の蝙蝠や牡丹等と華やかな意匠で彩られており、中国での縁起物を散りばめた由来だとか。さしずめ中国版陽明門というあたりでしょうか。

 

 この第一峰門を潜って右に進むと、石敷きの小さな中庭を囲むようにして諸堂が建ち並ぶ一画にポンと出ます。建物はいずれも中国様式に基づくもので、まさしく中国の住宅建築に見られる「院子」と呼ばれる内庭空間が再現されています。この建物群で中心となるのは本堂である大雄宝殿。1646年(正保3年)に建立された二階建ての仏堂で、大きさは桁行5間奥行4間で、屋根が入母屋造りの本瓦葺。長崎市内最古の建築物で、第一峰門同様に国宝に指定されています。
 一見すると禅宗寺院にありがちな一重裳階付きの仏堂に見えるのですが、実は平屋の建物に増築で二階部を追加した建物で、しかも一階部は第一峰門や興福寺大雄宝殿と同様に中国で部材が切り出されて運搬され、当地で中国人工匠が組み立てた純中国様式建築であるのに対して、二階部は日本人工匠が手掛けた和風建築となっており、全く違う二つの建築様式が上下合体した稀有で異色の物件なのです。一階の屋根の部分も同時に改造を行ったせいか、外観に違和感があまり感じられないのは、増築した日本人工匠の抜群のバランス感覚とセンスの賜物なのでしょう。さしずめチャーハンの上に鰻の蒲焼のせて食べたら意外と美味かったということでしょうか。

 

 

 その中国様式の一階は、三間四方の三面に一間周りを吹き放しとし、その内の前面部をアーチ型による黄檗天井として庇を支える黄檗宗独特の様式ですが、特に軒下に逆擬宝珠形垂下柱という特殊な構造体を備えており、この意匠は国内ではここでしか見られません。やはり第一峰門と同様に装飾性も豊かで、持ち送りや組物には龍や牡丹をあしらった極彩色の彫刻も見られます。

  

 

 二階は1681年(天和元年)頃に増築されたもので、先に完成していた四福寺の一つである福済寺大雄宝殿(原爆投下により消失)の意匠を倣ったもの。花頭窓に二重繁垂木を配し、組物に平三斗と中備に間斗束で組まれた折衷様式による和風仏堂の意匠で構成されています。一階に比べて装飾性は少なく、シンプルで落ち着いた外観です。

 

 内部は増築前の三間四面の部分にあたり、床は瓦の四半敷きによる一室で、天井板を張らずに屋根裏を見せる化粧屋根裏天井となり、明代当時の架構を見せています。本尊である釈迦如来坐像や十八羅漢像(何れも県の文化財指定)が並んで祀られています。

 

 大雄宝殿と中庭を挟んで向き合うのが護法堂。黄檗宗ではこの位置に玄関である天王殿を配置する場合が多く、この護法堂もそれに倣った形式なのですが、何故か門状とはならずに通常の仏堂化しており、その為にか隣に第一峰門が出来た模様です。桁行3間奥行5間の平屋建てで、屋根が入母屋造りの本瓦葺。国の重要文化財に指定されています。
 この建物も中国で部材が切り出されたものなのですが、大雄宝殿同様に屋根周りが和様化しており、日中工匠の合作か後年に改造があったのかもしれません。江戸中期の1731年(享保16年)に建立されたもので、より緻密な黄檗天井や半扉の意匠は大雄宝殿以上に中国趣味が濃厚です。特に梅花奇獣を彫り込んだ柱の礎石は最大の見所。

 

 

 大雄宝殿の前庇に連なって媽姐(まそ)門が繋がり、その奥に媽姐堂があります。長崎四福寺は唐人の菩提寺ですから、本国中国との航海の安全を祈願する船魂神を祀る媽姐堂がそれぞれあり、この崇福寺でも一番奥まった場所に配置されています。媽姐門は大雄宝殿と方丈との間の回廊ともなる複合型の門で、現存するものは江戸後期の1827年(文政10年)に再建されています。大雄宝殿の前庇から連続しているので、この門も前面一間通りはアーチ型の黄檗天井なのですが、その背面部は山形の合掌式化粧屋根裏天井となっており、ここでも中国様式と和様が一体化した複雑な構成をとっています。主材料は欅を採用しており、木割が太く安定感の高いどっしりとした外観の門で、これも国の重要文化財指定。

 

 

 媽姐堂は江戸後期の1794年(寛政6年)に建立された一重入母屋造りの仏堂で、県の史跡に指定されています。この媽姐堂と媽姐門に大雄宝殿・方丈で囲まれたブロックも、やはり中国風中庭の院子になっています。媽姐堂は外観は前面一間の黄檗天井や高欄・半扉等中国様式に基づいていますが、内部が和様仏堂の格天井になっており、日本化が大分進んだ現われ。媽姐門の正面には鐘鼓楼があるのですが、どうやらこれは移築されたものらしく、以前は港から媽姐堂・媽姐門が良く望めたとか。ちなみにこの鐘鼓楼は江戸中期の1728年(享保13年)に建造されたもので、これも国の重要文化財指定。

 

 



 「崇福寺」
   〒850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町7-5
   電話番号 095-823-2645
   拝観時間 AM8:00~PM5:00
   拝観休止日 無休