取手宿本陣染野家住宅 (とりでじゅくほんじんそめのけじゅうたく) 茨城県指定文化財



 取手宿は水戸街道で常陸の国に入って最初の宿場町ですが、実はその昔の水戸街道は取手を通過していなかったようで、5q程下流の我孫子市布佐地区から対岸の利根町へ渡りそのまま龍ヶ崎へと向かっていました。取手近辺は広大な湿地帯で通行できず、江戸初期の寛永年間に新田開発事業で今に見る水田が完成して区割りが整い、その後にようやく街道の付け替えが行われており、元々の取手宿の街並みは利根川沿いを走る守谷と佐倉を結ぶ街道の集落の一つにすぎなかったようですね。水戸街道が既存の佐倉道と共用して通るようになり、改めて五街道の宿場町として整備されて河運も含めて交通の要衝として栄えていきますが、大名家の参勤交代もありますから本陣も必要ということで、川岸の街道沿いに設営されています。利根川の土手っぺりを走る県道11号線のビルマンションが立ち並ぶ商店街の奥に、今でも江戸中期に建造された本陣の建物が残されています。

 

 取手宿の本陣が設置されたのは街道付け替え後の1687年(貞享四年)のことで、当地で代々名主を務めた染野家が担当。設立当初に構えた本陣の主屋は約百年後に隣家の火事で延焼し、徳川家から十五両を借用して翌年の1795年(寛政七年)に再建されており、表門は1805年(文化二年)の建造で土蔵も同時期に建造されたものです。染野家は本陣や名主の業務以外に特産品の醤油醸造も手掛けていたようで、主屋の裏手には大きな醸造場や蔵もあったようですね。このうち主屋と土蔵が茨城県の有形文化財の指定を受けています。

 

 大きな破風屋根の式台玄関部が印象的な主屋は、屋根が寄棟造りの茅葺で、大きさは桁行20m奥行13.9mの面積が312u。正面中央やや左寄りに入母屋屋根の玄関部が前面に突き出しており、麻生藩家老屋敷や富岡家住宅など茨城県内でわりとみられる民家形式の一つで、東北地方や越後の中門造りと似たスタイルです。

 

 その式台のある玄関部は格式の高さを示す意味もあるのでしょうが、およそ民家建築とは思えない意匠が散りばめられており、入母屋破風屋根には妻飾りと懸魚が取り付き、軒下の梁には蟇股が嵌められ、その両端には木鼻も見られるなど、まるで伝統的な寺社建築を思わせる内容です。

 

 

 内部は向かって右側三分の一が奥まで土間となり、左手の床上部に畳敷きの部屋が九部屋正方形に並び、背部に新座敷が取り付く構成で、農家建築に見られる板の間はありません。土間は天井裏まで高く吹き抜けて三段に組まれた梁組が展開し、くども設えるなどまさしく農家建築そのものですが、土間沿いには板敷きの広縁が取り付くだけなので、どちらかというと町家建築に近いですね。

 

 

 この土間沿いに手前から十五畳のひろまと九畳のちゃのま、それに六畳が並ぶ構成で、ちゃのまと六畳の奥にそれぞれ五畳のなんどと六畳のなかなんどが続きます。この内なんどとなかなんどは元は板敷きだった模様。これらの部屋が染野家の住居空間となりますが、壁は漆喰ですけれど淡茶色の粗壁のままで、構造も差鴨居が使われた質実簡素な造りです。屋根は全て竿縁天井で、各部屋にある数寄屋風の床の間は後年の改造。ひろまはこのプライベート空間で唯一本陣としての武家屋敷空間との接点となる部屋で、その為か槍掛けも取り付けられてあります。

 

 

 実はこの染野家は明治初期に一時期、五等郵便取扱役(現在の特定郵便局局長)を務めていて、ひろまの手前である式台玄関横に、馬蹄型の小さな窓口が開けられた郵便窓口が残されています。

 

 

 式台玄関の隣に十五畳のなかのまがあり、ここから左手に矩折で八畳ずつに三の間・二の間・上段の間と本陣の空間が並びます。なかのまから並ぶこれらの武家屋敷空間は、隣の住居空間とは一転して格式の高い意匠となり、壁は白漆喰になり構造にも長押が嵌められ、床の間は大床になり床柱にも皮付き丸太が嵌り、様々な紋様の釘隠しが打たれています。ちなみに隣のひろまの槍掛けに対してなかのまには弓掛けが。

 

 

 三の間からストレートに並ぶ座敷は左手に池泉鑑賞式の庭園を臨むように配置され、三の間と二の間との欄間には細かな菱格子が入り、文字通り20p分上に高くなった上段の間には床の間に天袋と両違い棚が取り付き、瓢箪の図案が刳り抜かれた欄間のある付書院も設けられるなど、さすが大名家が宿泊休息するグレードの高い空間が展開しています。

 

 

 



 「旧取手宿本陣染野家住宅」
  〒302-0004 茨城県取手市取手2-16-41
  電話番号 0297-73-2010(取手市教育委員会教育総務課埋蔵文化財センター)
  開館時間 金・土・日曜日 AM10:00〜PM4:00