聖福寺 (しょうふくじ) 重要文化財
異国情緒漂う長崎では、禅宗寺院も曹洞宗や臨済宗よりも中国趣味濃厚な黄檗宗の寺院が多く見受けられます。これはキリスト教禁制後に各宗派の檀家になることを幕府が強要したことに端を発するもので、長崎に多かった在留中国人も例外ではなく、中国各地域の出身者がそれぞれ集って各寺院を建立したのがその謂れ。特に黄檗宗が多いのは、当時臨済宗の高僧だった隠元禅師が明代末期の混乱を避けて長崎に来日して1年ばかり滞在し、その後京都の宇治で黄檗宗を開いたことに由来するもので、曹洞宗や臨済宗に比べると後発で、中国様式を色濃く残すこの宗教が在留中国人にとって一番受け入れられやすいものだったのでしょう。市内には4つの代表的な黄檗宗の寺院があり、それぞれ名に”福”の字が含まれることから”四福寺”とも呼ばれています。いずれも市内きっての大寺ばかりで、仏像・書画・建築等の文化財の宝庫でもありますが、一番西に位置する旧国宝だった福済寺は原爆投下により全て失われてしまいました。この福済寺の並びは寺院が多く建ち並ぶ地区で、門前を走る筑後通り沿いに東西に8つの寺が連なっており、福済寺から200m程東にもう一つの四福寺である聖福寺があります。こちらは爆心地からは山影になるために罹災せず、江戸中期の建造物を多く残す昔ながらの佇まいを見せています。
聖福寺は、隠元禅師の高弟木庵の弟子だった長崎出身の鉄心道胖が1677年(延宝5年)に開山した寺院で、当時の長崎奉行である牛込・岡野の両氏がその創建に関わっており、また工匠も日本人だけで行われているので他の三福寺のように唐人達で作り上げた由来とは異なります。そのせいか中国様式は他に比べると鳴りを潜め、派手な丹塗りは姿を消して、和様建築の意匠が混成した擬様式の寺院ということになります。通りに聳え立つ山門も中国趣味とは言えず、1703年(元禄16年)に建造された切妻屋根の三間三戸の八脚門なのですが、中央を高く切り上げた外観は黄檗宗特有のもので、大本山萬福寺の総門と同じスタイル。正面虹梁下の牡丹と怪魚の大きな持送りは長崎地方で多く見られる特徴で、軒下には隠元禅師の81歳筆という「聖福禅寺」の扁額が掲げられています。
福済寺やこの聖福寺が並ぶ立山地区は長崎市内に多い急斜面の傾斜地で、伽藍は階段を曲折しながらコンパクトに配置されています。山門を抜けてジグザグと急峻な石段を登ると、再び門が御目見え。この建物は天王殿という黄檗宗の玄関にあたる建物で、本堂の前に置かれるのが通常のパターン。ここでも奥の本堂前に配置されており、萬福寺と同じ構成です。鉄心は萬福寺で長く修行した禅僧なので、どうやら同様の構成にしたかったらしく、かなりサイズダウンをしていますが、伽藍の構成は似ています。山門と共に畿内の堺の工匠の手によることも、萬福寺に近づけたい表れなのでしょう。ちなみにこの天王殿は長崎ではここのみで、1705年(宝永2年)の建造。
この天王殿の奥に本堂である大雄宝殿があり、右手に方丈、左手に禅堂が配置されて前庭を取り囲む禅宗伽藍が形成されていましたが、禅堂は破却されています。樹木の多い前庭で、蘇鉄が多く植わっていることもありその中国風の外観も相まって、台湾やマカオあたりの南方系の寺院を彷彿とさせます。大雄宝殿は黄檗宗に多く見られる仏堂で、宇治の萬福寺が著名ですが、やはりこの萬福寺と同様式で建造されており、大きさは桁行3間奥行3間に屋根が切妻造りで一重裳階付き。1697年(元禄10年)に建造され、1715年(正徳5年)に改造されています。
外観では瓦に特徴があり、肥前武雄で焼かれた釉瓦を採用している点。やや紅色の鮮やかな色合いは、南国風の開放的な異国情緒を高めています。屋根には宝珠・鯱が乗っていますが、これも萬福寺の意匠と同じもの。
黄檗宗の仏堂に共通の正面吹放しに蛇腹のアールを描く黄檗天井とパターンを踏襲しており、また魔除けの桃戸に卍崩しの高欄と、やはり萬福寺の意匠を踏襲した内容で、左右の丸窓が無いぐらいであとは殆どコピーといっても良い内容です。他の唐寺が中国様式の強いものが多い中で、マイルドに和風化していった長崎では逆に異色の仏堂です。
他にも鐘楼・開山堂・石門・庫裏・書院等が、傾斜地の制約を受ける土地にコンパクトに配置されており、独特の景観を作り出しています。山門・天王殿・大雄宝殿・鐘楼は国の重要文化財指定。
大雄宝殿の裏側にも石段が続き、長崎市内を一望出来る眺望の良さ。ここで映画「解夏」のロケが行われたそうです。