下ヨイチ運上屋 (しもよいちうんじょうや) 重要文化財
新千歳空港駅から札幌方面の快速エアポートに乗り込み、札幌を過ぎて小樽までは都市部の高速鉄道網で快適にスムーズに進みますが、小樽駅から先の函館本線は途端に一両編成ワンマンディーゼルカーのマイナーローカル線に早変りし、何事も無かったようにテレテレのたくりながら進みます。ド演歌が聞こえてきそうな日本海沿いのしばれる寒村を幾つか過ぎて、やや人家が集まってきたなと思うと余市の町に到着。余市と言えばニッカウヰスキーの創業地であり今でも蒸留所として稼動するウイスキーの町として知られていますが、元々は江戸期に交易地として開かれた土地で、明治期以降はニシンの漁場として栄えた歴史を持ち、後発の札幌・小樽における近代的な街並とは対照的な、まだ蝦夷と呼ばれていた頃の土着的な風土の臭いが残る場所です。その長い歴史を物語る貴重な物件の一つである「下ヨイチ運上家」が、余市川河口近くに残されて公開されています。
この運上家とは、江戸期の蝦夷における独特の利権構造がベースとなったとてもユニークな施設。まず松前藩が藩内の上級武士への禄(給金)として、寒冷地の為に米の出来ない事情からアイヌとの交易権を与えてその収益をあてさせたのがそもそもの始まりで、サムライが商売やっても上手くいかないのは当然の事から商人に業務を請け負わせ、その利益を上納させるというシステムを構築して運営し、その際に商人が業務を行った本拠地が運上家です。当初は交易が中心だった模様ですが段々と手を広げて多角化して行き、漁業権も得て大型化し駅逓や北方警備も担うなど、行政の出先機関のような内容に変化していきました。蝦夷にはこのような運上家は約80ヶ所設けられていましたが、1869年(明治2年)の開拓使設置により役目を終え、殆どは旅籠等に姿を変えて失われ、現在残る建物はこの下ヨイチ運上家のみ。ちなみに上ヨイチ運上家も嘗ては存在していました。この下ヨイチ運上家は18世紀には設置されていたものと見られ、江戸後期の文政年間に羽後の商人竹屋長左衛門が請負い、1853年(嘉永6年)に改築したのが今残る建物。この施設も色々と変遷があり、当初とは建物の向きが90度回転しており、蔵等の付属施設も破却されています。外観は屋根が切妻造りの長柾葺、大きさは桁行34m奥行14.7mの木造二階建て。海沿いの風が強い土地柄か屋根は石置きで、その下は和式の下見板張の貧乏臭い質素な造りですが、実は内部には全く異なる大空間が広がっています。
出入り口は全部で3ヶ所あり、正面中央の式台風の玄関と左手の「あまや」と呼ばれる家人用のものと、それに裏手に勝手口があり、この「あまや」から中へ入ります。内部は土間に続いて板の間が一体化した吹き抜けの広々とした空間が造られており、まるで劇場の舞台のような趣です。土間は漁師達の使用人のスペースで、板の間が家人達や親方のスペースとなり、土間と板の間のそれぞれに囲炉裏が切ってあります。土間は台所兼食堂でもあるので、この囲炉裏の周りで漁師達が飯をかっこんでいたのでしょう。
なんと言ってもこの板の間の広いスペースは圧巻で、天井板を張らずに屋根裏を見せて、野太い椴松や蝦夷松を巧みに組み合わせた梁組みによりこの大空間を支えており、何段にも貫を重ねた強固で豪壮な造りは、同じ豪雪地帯の北陸の民家群にも似た様式です。この板の間を中心として左右に帳場・酒部屋が並び、その上には船頭・漁夫の寝室も並ぶ機能的な構成で、無駄なスペースがありません。
その寝室は薄暗くて狭い板の間。冬は寒そうですが、囲炉裏の熱が上がってくるので、それほどでもないとか。ここでも強靭な部材の太さが判ります。隅に小さな格子窓があり、ここで北方警備等による近辺の監視を行っていた模様。
土間と板の間で平面の半分程を占めており、板の間の奥は座敷部となります。請負主の武士や代官が視察に来た時の為の接客空間で、式台付きの玄関もこちら側。中央の畳廊下の左右に2部屋づつ計4部屋並ぶ平面構成で、何れも長押を嵌め床や書院棚を設けた格式高い書院造の部屋ばかり。板の間からは一段上がる格好で、その内部意匠も激変しますが、何よりも外観とのギャップが一番大きな箇所ではないのでしょうか。貧乏臭い外観とは正反対の、ここだけ御殿のような造りとなっています。国の重要文化財指定。
「旧下ヨイチ運上家」
〒046-0011 北海道余市町入船町10
電話番号 0135-23-5915
開館時間 AM9:00〜PM4:30
休館日 月曜日 祝祭日の翌日 冬季(例年12月中旬〜4月上旬)