仙波東照宮 (せんばとうしょうぐう) 重要文化財



 一説によると明智光秀の生き残り伝説もある天海は、徳川葵三代将軍家に絶大な影響力を持った僧侶で、さしずめロマノフ王朝における怪僧ラスプーチンのような存在。日光東照宮を計画し取り仕切ったのも天海で、全国に東照宮の建立も勧進させています。当然本人が住職を務めていた川越の喜多院にも東照宮はあり、山内の一番南側の小高い丘の上に造営されています。

 

 この喜多院のある一帯は仙波古墳群と呼ばれる4世紀から7世紀にかけての古墳が点在しており、東照宮のある小高い丘も古墳の名残。すぐ北側に慈眼堂古墳もあり、以前は小仙波東照宮とも呼ばれていました。家康没後に久能山から日光へと移葬される途中でこの喜多院で法要が執り行われことになり、その際に家康の像を祀ったのがこの東照宮の始まりで、1633年(寛永十年)に創建されています。五年後には喜多院ともどもに川越の大火で全焼し、1640年(寛永十七年)に再建されたのが今に残る姿で、建築物は全て国の重要文化財の指定も受けています。
 境内は他の東照宮と同様に東向きに直列に諸殿が配置される構成で、随身門・石鳥居・拝殿・幣殿・唐門・本殿が一直線に並びます。境内入口にある随身門は、大きさが桁行三間奥行二間による銅板葺切妻造り屋根で、丹塗りが鮮やかな八脚門。その奥にある石鳥居も国重文です。この鳥居前はちょっとした広場になっており、団子屋が営業中。

 

 

 ここから急な石段が上へと延びて社殿群の前に至ります。この小高い丘の一画は周囲に掘割が囲んでおり、城砦のような様相も兼ねています。川越城の南側に位置するので、戦の際には防御の拠点としても考慮されていたのでしょうね。普段は閉ざされていますが日曜日になると門が開かれ、拝殿前までは入ることが出来ます。拝殿前に何気なく置かれている狛犬や手水鉢は江戸城から持ち込まれたもの。

 

 

 何故かように江戸城由縁が置かれているのかと言うと、この社殿が江戸城二之丸東照宮を移築したという説があるから。真偽のほどは不明ですが、狛犬や手水鉢はどうも本当の様です。その社殿の一つである拝殿は、外観は屋根が入母屋造りの銅瓦葺で、大きさは桁行三間奥行二間となり、前方に一間の向拝が取り付きます。こちらも随身門と同様に美しい丹塗りの建物ですが、軒下の木鼻や蟇股には極彩色の彫刻が施されてあるもののそれ以外はいたって装飾性は薄く、長押から下は正面一間分の桟唐戸以外は蔀戸が嵌るだけで彫刻はありません。内部は江戸初期の謎の天才絵師だった岩佐又兵衛による三十六歌仙額(国重文)が掲げられています。

 

 

 この拝殿と背中合わせで幣殿が接続しており、平面で見ると凸型になります。外観は屋根が入母屋造りの銅瓦葺で、大きさは桁行二間奥行一間となり、こちらも丹塗りが鮮やかな建物。拝殿同様に軒下の蟇股以外は装飾性が薄く、長押から下は蔀度から舞良戸と板壁に変わります。内部は拝殿・幣殿ともに漆塗りの小組格天井で、十二枚の鷹絵額が奉納されています。

 

 

 この東照宮は久能山・日光・和歌山・上野などの東照宮に見られる権現造りで造営されておらず、拝殿・幣殿と本殿が分離しています。石垣上の瑞垣に囲まれる様にして本殿が構えられており、正面の幣殿前に唐門が開かれています。一門一戸の平唐門で、屋根が銅板葺。瑞垣は一周三十間による透塀で、屋根が本瓦葺です。

 

 本殿は屋根が銅瓦葺の三間社流造りで、丹塗りを基調に柱と高欄や桟唐戸に黒漆塗りを施したコントラストの強い外観。拝殿に比べて装飾性が豊かになり長押から上は夥しい数の極彩色の彫刻で埋め尽くされています。内部は黒漆塗りの重厚で荘重な空間で、収められている宮殿内には天海が彫作した家康の木像が祀られています。

 

 

  



 「仙波東照宮」
  〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1-21-1
  電話番号 049-222-1396(川越八幡宮)
  拝観時間 AM10:00〜PM4:00 日曜日・祝日のみ