青岸寺 (せいがんじ) 名勝



 東海道本線と北陸本線の分岐点で、新幹線も停車する米原駅は交通の要衝なのですが、駅前周辺は恐ろしいほどに閑散としていて、コンビニやファーストフード等の気の利いた店舗は一切なく、宿泊施設も見当たらない田舎の無人駅のような光景が広がります。駅舎はとても近代的で規模も大きいのに酷い落差ですが、行政区分でもちょっと前までは”町”でしたし、市内中心部の小さな市庁舎の前には田圃も広がる長閑な田舎町なので、新幹線の乗降客はトットとスルーして、お隣の”ひこにゃん”の彦根や長浜へでも向かうのでしょう。
 でも江戸期には北国街道の宿場町であり、琵琶湖船運の寄港地としても栄えた場所で、街道沿いに町家造りの民家が建ち並び、湊周辺に商家の蔵が並ぶ複合的な町並みが形成されていたようです。湊のあった入江内湖は埋め立てられてしまって今はもう見る影もありませんが、駅東口前を走る国道8号線のすぐ裏手に北国街道が走っており、往時を思わせる風情ある町並みが残されています。駅のアナウンスが良く聞こえる程の近い場所なので、普通だったら再開発の波に洗われてしまうのでしょうが、乗換駅として通過される為に奇跡的にうまく残ったのでしょう。
 このような旧街道の宿場町には古社名刹が付きもので、町並みからちょっと外れた山側のドン突きに、青岸寺という曹洞宗の古刹があります。禅寺らしく森閑とした厳かな気配が漂っており、新幹線の停車駅から徒歩5分内とは思えないほどの環境です。

 

 歴史を紐解くと南北朝の延文年間に創建された米泉寺を前身としており、兵火によって荒廃していたのを江戸初期の1650年(慶安3年)に彦根の大雲寺が伽藍を整えて復興し、青岸寺と改名して曹洞宗に改宗された寺院で、彦根藩主の井伊家の祈願所の一つとなっています。庭園はその際に作庭されたようですが、1677年(延宝5年)に藩主の井伊家が下屋敷として楽々園を造成することになり、この青岸寺の石を悉く持ち去ってしまったことから消滅してしまい、翌年再び造成されたのが今に残る庭園です。殿様の我儘によって儚く破壊されたお庭ですが、楽々園の作庭にあたった井伊家の家臣である香取氏に命じて造成されているので、代償行為としての面もあったのでしょう。楽々園はこの青岸寺庭園の原型を模った謂れもあり、相関性もあるのかも知れません。

 

 敷地は山麓の傾斜地にあたる為に、本堂・庫裏の裏手北東側を頂点として緩やかに下り、無数の石を置いて杉苔で覆った枯山水の形式で、周囲を鬱蒼とした森に囲まれた深山幽谷の景色が広がります。石の配置の構成は神仙思想に基づくわりとよくあるパターンの一つで、頂点に三尊石を設置しそこから滝組を経て水流を見せ、やがて大海に出て蓬莱島に至るというもの。石組や枯滝の構成は絶妙で、特に三尊石は力強く存在感が充分にあり、この庭園全体を睥睨する皇帝の様です。観音様ですけどね。
 神仙思想の蓬莱とは壷のようなものであると言う説もあり、この庭の三尊石と蓬莱島との組み合わせを下から見るとちょうど壷状になります。傾斜地を上手く活用した巧みな構成のお庭です。国名勝指定。

 

  

 他の見所は、蓬莱島へ架けられた切石の反り橋、その手前にある胴部が切支丹灯籠となった和洋折衷の寄せ燈籠、降り井戸形式の蹲踞など。苔にびっしりと覆われていますが回遊路がある池泉回遊式だそうで、元々は枯山水では無く池があったという説もあり、近江の苔寺とも呼ばれる由縁はそのあたりなのでしょうか?

  

 本堂の北側から渡り廊下で、「六湛盦(ろくたんあん)」と命された書院があります。明治期に建てられた離れ形式の建物で、中は炉も切られて茶室としても使われています。この座敷からの庭園の眺めもまた格別。

 



 「青岸寺」
  〒521-0012 滋賀県米原市669
  電話番号 0749-52-0463
  拝観時間 AM9:00~PM5:00 冬季はPM4:00まで
  拝観休止日 火曜日