笹川家住宅 (ささがわけじゅうたく) 重要文化財
越後平野は日本最大の穀倉地帯ですから、大地主の豪農屋敷が集中する地域で、1986年に刊行された新潟日報事業社の「越後豪農めぐり」には、新潟県内に残る53にも及ぶ豪農屋敷が掲載されています。北方文化博物館として公開されている旧横越町の伊藤邸や、映画「蔵」のロケ地にもなった関川村の渡辺邸などがその代表選手といったところですが、旧味方村の笹川家も負けず劣らずの内容を持つ屋敷で、約4300坪もの広大な敷地を堀と巨木で取り囲み、その内部に主屋を始めとする幾棟もの建築物を並べた大豪邸が展開します。敷地内の殆どの建築物が国の重要文化財に指定されており、土地自体も指定対象となっているほど。
笹川家は武田源氏の末裔といわれ、戦国期の天正年間に信濃から当地へ移住し、江戸初期の慶安年間から代々村上藩味方組の大庄屋を務めた旧家でした。旧水内郡笹川村(現飯山市)から来たので、氏の由来もそこから。今に残る豪邸が構えられたのが江戸後期の文政年間で、前の建物が1820年(文政3年)に焼失した後に順次再建されており、主屋の表座敷と土間が完成したのが1826年(文政9年)のこと。その後幕末までに背後にある夥しい数の蔵が造られ、明治期になって井戸小屋や外便所が出来て今に見る陣容が整いました。建築年代が比較的新しかったことが、このような付属施設までそっくりそのままパッケージ化されて残された要因なのでしょう。
まず茅葺の表門を潜って広い芝生の前庭に入ると、正面に威風堂々とした主屋がお目見えします。元は柿葺だった銅板葺による重量感溢れる寄棟造の大きな屋根は、大庄屋としての威光を示す効果も計算されているのでしょう、門から前庭に足を踏み込む地点でのパースペクティヴが絶妙で、まるで前庭が競技場か闘牛場のような劇的な空間を醸し出しており、裁判所も兼ねていたわけですからお白州の意味合いもあったのでしょうね。
主屋は表座敷と台所に分かれており、背後に居室部が渡り廊下で連なります。桁行34.3mに奥行17.6mと東南方向を正面にして建てられ、向かって左手に重厚な唐破風屋根を乗せた式台付き玄関が突き出し、右手に寄付と大戸口が並ぶ構成で、このうち玄関のみが表座敷側となり、寄付と大戸口は台所側となります。
雪国らしく周囲に深い庇を取り回しますが、庇の下には表座敷側のみに縁側と格式高い畳廊下が取り付いており、役宅としてのグレードアップした姿が見られます。この御屋敷の見所の一つに、この役宅としての上質な意匠と、他の箇所との酷い落差でしょうか。
右手の大戸口を入ると中は土間。この主屋は旧越路町(現長岡市)にある長谷川家住宅と間取りの配置構成が良く似ていて、両家に姻戚関係があることから当家が焼失後に長谷川家に倣って再建されており、この土間部の構成も長谷川家に似ています。但し土間自体はあまり広くは無く、原始的で広大な土間を持つ長谷川家とは対照的で、それだけ時代が下がったという証拠なのでしょう。
天井板は張られず高く吹きぬけていて、木太い丸太を幾層にも絡めて組み上げた強靭な梁組が見られます。その梁組を支えるのが土間上に立つ三本の独立柱で、33cm角に長さ4.8mの草槙による巨木で力強く支えます。草槙は水に強い木材で風呂場などにも使用されるそうです。
それとこの土間部は構造上もあるのでしょうが機能的に仕切りされており、側面を流しや物置として区割りされていて、一部には下男部屋もあります。土間に筵を敷いただけのうら寂しい部屋で、ここで10人ほどが雑魚寝していたとか。
表座敷は玄関を中心として左右に二間ずつ六間取りの平面構成で、玄関の奥に18畳の「三の間」、右手に28畳の「広間」が続き、「三の間」から矩折りで「二の間」「上段の間」が並びます。広々とした座敷が並ぶ為に各部屋とも天井が高く、使われている建具(襖・障子・板戸)も大きな物が使われるなど広い空間に合わせてバランスが取られており、柱や差鴨居も太い部材で組まれた外観同様に規模の大きな堂々とした内部空間が広がります。
特に「広間」は28畳分を内部に柱を立てずに支える為に、太い梁を二重に架けて広い空間を造り出しており、より高く(4.8m)取られた天井はあえて板を張らずに剥き出しになった豪壮な梁組を見せています。ここは村の庄屋達を集めて会議する場なので、ここで大庄屋の力を誇示する狙いもあったのでは?
「三の間」から続く接客空間の座敷は、他の部屋とは全く異なる凝った意匠のオンパレードで、例えば「三の間」には玄関正面に大床が設けられ、その壁紙と隣の「二の間」との襖には卍崩しの紋様が入り、同じ紋様が「二の間」の欄間にも入ります。この紋様は青い箇所を見れば”卍”に見えますが、白い箇所を見ると”米”の字に見え、米どころである当地に因んだもの。
さらに「二の間」と「上段の間」との欄間には、水を入れる容器である瓢箪の形に大きく刳り抜かれており、稲作に重要な”水”にまつわるモチーフが見られます。豪農屋敷らしい意匠ということなのでしょう。その欄間の下には長押が打たれ、建具には朱漆が塗られるなど格調高い空間が造られており、釘隠しにも末広や二羽鶴の金具が見られます。
主賓を迎える為の「上段の間」は端正な書院造ですが床柱は皮付き丸太が嵌められて数寄屋風に少し崩しており、床の狆潜りの竹の図案や、付書院の満月の形に刳り抜かれた竹の欄間などにも同様の趣向が見られます。また床框と建具には黒漆が塗られています。
ところでこの「上段の間」と「二の間」は畳に京間が入っており、本来なら12畳半と15畳となるところを、9畳と12畳となっていて、他の部屋との差異を示すということなのでしょう。特に「上段の間」の床の前の畳はとりわけ長くなっており、藩主が座った時に畳の縁を踏まない為の配慮とか。
土間の裏側から渡り廊下で繋がるのは居室部。実はこの居室部の方が先に完成しており、主屋より5年早い1821年(文政4年)に建てられています。規模もこちらの方がより大きく複雑となり、主体部は桁行26.5m奥行13mで屋根が寄棟造の銅板葺(元柿葺)平屋建てに、逆L字型で奥に桁行14.6m奥行7.4m切妻造及び入母屋造の銅板葺(元柿葺)と桟瓦葺の二階建てによる突出部が付く構成。
表座敷同様に深い庇が取り回していますが、こちらは通り土間と長い廊下が走ります。この通り土間も雪国らしい設え。
こちらは家人の日常生活空間ですから、飾り気の無いいたってシンプルな部屋が並んでおり、差鴨居を嵌めた質実剛健な造り。囲炉裏の切られた24畳の「茶の間」には神棚もあります。板の間の「仲の間」や土間のある「勝手」など実用的な部屋が並びますが、東南に一寸と庭へ突き出た7畳の「客間」のみは数寄屋風の座敷で、当主が月見を楽しんでいたとか。
一部には天井の低い三畳間の乳母部屋があり、側の箱階段で上がると子供部屋があります。乳母部屋は本当に狭く薄暗い部屋。
奥の突出部は仏間などが並びますが、ここで面白いのが廊下上部にある斜めに切られた障子欄間。庭に鬱蒼と大木が茂っており、冬季になると雪が積もって陽が差さないことから、軒裏から採光する為の雪国らしい工夫です。
二階部は1912年(大正元年)に増築されたもので、当時の当主の息子が結婚したことから作られた新居。数寄屋風の近代和風建築で、紫檀・黒壇・鉄刀木・縞柿などの南洋材を使ったり、付書院の欄間に富士山の透かしを入れたり、天袋の襖に揉金紙が使われる等、趣味性の強い意匠の空間です。表座敷「上段の間」の床の間と時代による意匠の変化を比べて見るのも面白いかもしれません。
敷地内には、文庫・雑蔵・奥土蔵・米蔵・飯蔵・三戸前口土蔵・井戸小屋・外便所などが整然と並び、周囲を深い木立が包み込みます。表座敷には池泉回遊式の庭園もあり、美しい竹林も広がるこの豊かな屋敷林が、この邸宅の大きな魅力の一つにもなっています。
「笹川家住宅」
〒950-1261 新潟県新潟市南区味方216
電話番号 025-372-3006
開館時間 AM9:00〜PM5:00
休館日 月曜日 12月28日〜1月3日