済生館本館 (さいせいかんほんかん) 重要文化財



 山形県は明治期に建造された洋風建築の宝庫とも言える場所で、他では洋館等の住宅建築が中心なのに対してここでは公共建築に優品が多く残されており、特に山形市と鶴岡市に集中しています。それぞれ村山地方と庄内地方の中心地で、県庁(明治初期は山形県と酒田県があった)が設置されていたことによりますが、何故公共の洋風建築がかの地に数多く建造されたかというその理由は、県令(県知事)として赴任した三島通庸に依ることが大きく、大久保利通の側近で薩摩藩士出身の冷徹で鬼と呼ばれたこの人物の趣味。何故か東北地方は薩長に目の敵にされたようで、おそらく人種的な偏見もあり、まだ不安定だった新政府に対して畏怖と脅威により強権を誇示するには洋風の近代建築が何かと好都合だったのでしょう。
 特に山形県が出来る1876年(明治9年)に、それまでの酒田県令から初代山形県令に移ってからはこの山形市を県庁所在地としてモダンな洋風建築による公共建築を次々と建築しており、当時としては先進的な西欧風の街並みが造られていきました。残念ながら当時の建築物は殆ど残っておらず、唯一の物件が今は霞城公園内に移築された済生館本館で、今は山形市郷土館として公開中。

 

 この済生館本館は1878年(明治11年)9月に市内中心部の七日町に建造された県立の病院で、戦後の昭和30年代後半まで実際に市民病院として使用されていました。”三層楼”とも呼ばれる木造三階建ての楼閣風の建物で、明治初期に多く造られたいわゆる擬洋風の建築物となります。国の重要文化財指定。
 この擬洋風の建物は日本建築の棟梁達が見よう見まねで建てることが多く、この済生館でも山形の宮大工が数多く関わっており、各所に日本建築の伝統工法の影響が見られます。外壁はアメリカ発の下見板張りですが、正面二階ベランダの下には唐草模様の持送りが付けられ、正面一階の列柱も禅宗寺院風に礎盤に乗って並べられています。和洋折衷の不思議な眺め。

  

 この建物の最大の特徴はその形状のユニークさ。望楼風による三階建ての塔部を支点として、左右に円廊を回した14角形によるドーナツ状の平面としており、この円廊沿いに8つの病室・診療室を繋げた配置構成となります。このスタイルは横浜にあったイギリス海軍病院を参考にしたそうで、これも三島通庸による意向だとか。
 この塔部がまた変わっており、一階は8角形、二階は16角形、中三階は4角形で最上階の三階は再び8角形と、各階ともその形状を全く異にする不思議な造り。それぞれの窓の意匠も変えており、屋根も変えています。遊び心で造ったの?ちなみに塔の高さは24mあり、現在のビル8階の高さ。往時の市内では群を抜く高さだったようで、このあたりも権威をひけらかす為に三島通庸が意図したものなのでしょう。

 

 

 一階の病室が並ぶ屋根は、日本の伝統建築に多い桟瓦葺。但し赤い釉薬が掛けられており、南欧風の明るい雰囲気があります。いっぽう二階以上の屋根には亜鉛板が葺かれており、こちらは緑色の軽快な風貌。

 

 塔部の窓や扉上のアーチ欄間には色鮮やかなステンドグラスが嵌められており、特に中三階の窓には星型による凝った意匠のものも見られます。残念ながら二階より上は入室禁止。

  

 その塔部は狭い螺旋階段で昇降するようになっており、二階より上への階段にはベランダ同様に唐草模様の彫刻が施されています。この中三階や三階は特に何もない部屋なので、火の見櫓以外に利用方法がありませんが、ランドマーク的な存在と威圧感が目的で作られたのでしょうけれど。

  

 二階は16角形の大部屋が一つ。狭い螺旋階段に患者を通すことはしないでしょうから、事務室か医学校の教室だったのかもしれません。(開院当初は医学校が併設されていた)
 部屋には「済生館」の扁額が掲げられており、これはこの病院の命名者である当時の太政大臣だった三条実美の手によるもの。

 



 「山形市郷土館」
   〒990-0826 山形県山形市霞城町1-1
   電話番号 023-644-0253
   開館時間 AM9:00〜PM4:30
   休館日 年末年始