蘆花恒春園 (ろかこうしゅんえん)



 京王線の芦花公園駅は近くに蘆花恒春園があるのだろうと思って下車すると痛い目にあいます。駅からはゆうに1キロは歩かされ、隣の八幡山駅や千歳烏山駅からと殆ど距離が変りません。元々は「上高井戸」という駅名だったのを蘆花恒春園が出来て改名したわけなので、隣の千歳烏山駅から千歳船橋駅行きのバスに乗ったほうが便利です。まあ駅から遠いということはそれだけ静かな環境が保たれているわけでもあり、かつての東京の田園生活が残されている場所ではあります。
 徳富蘆花がこの世田谷の粕谷に居を求めたのは1907年(明治40年)の四十の時。前年ロシアに文豪トルストイを訪ね、農耕生活の尊さを訓えられ、帰国し青山高樹町の家を売り払い、武蔵野の雑木林に囲まれた茅葺の小さな東屋を購入し、晴耕雨読の日々を送っていたのがこの蘆花恒春園。恒春園の命名は自著「新春」が発行されたばかりのことと、台湾の南端に恒春という土地があり、その名を頂いて”永遠に若い”という願いを込めて付けたとか。ところがこの茅葺の東屋は相当な安普請だったようで、雨漏りはするは壁は落ち放題だわ床下は吹き通しと酷い惨状。蘆花が購入する前は大工の妾宅だった建物だとか。おまけに冬の寒い時期に引っ越してきたので、命名とは裏腹の状況だったとボヤいています。

 

 色々と手を入れて何とか住めるようにし、隣接の土地を求めて日々野良仕事に勤しんでいたようです。この母家がいかにも鄙びた佇まいの余計な物は一切無い、シンプルライフを実践するような空間で、静かな農村暮らしを過ごすのには丁度良い感じ。

  

 でもさすがに手狭になってきたのか、引っ越して2年後に母家の隣に草庵風の建物を購入して移築しました。同じ世田谷区の北沢にあった建物で、やはり茅葺の屋根ですが内部は床の間もある近代和風建築となり、「梅花書屋」と名付けて書斎として使っていました。以前は母家から踏石で往復していたそうですが、今は渡り廊下で連絡されており、その中途に当時としては珍しかった電話機やオルガンなどが展示されています。

 

 

 さらにその2年後には今度は近所の烏山にあった古屋を購入し移築しました。これも色々と改造して、ベッドを置いたりテーブルと椅子を並べダイニング空間にしたりと、畳敷きの部屋に西洋趣味が入り混じったちょっと不思議な空間になっています。ロシアにトルストイを訪ねるぐらいですから西欧的な生活空間も欲しかったのでしょう。この建物を移築する頃は、大逆事件の幸徳秋水らが処刑された時期にあたり、大逆事件の冤罪を主張し秋水らの釈放運動を起こしていた蘆花は、有名な「新しいものは常に謀反である」という「謀反論」を起稿しこの建物に「秋水書院」と名付けました。

 

 園内はクヌギやコナラなどの雑木林や竹林が広がり井戸やお地蔵様も点在する、宅地化されて姿を消した武蔵野の美しい田園風景がそのまま残された貴重な場所です。ここで蘆花は20年間過ごし、野良仕事の合間に幾多の作品を残して過ごしました。最期は療養先の伊香保で亡くなるのですが、亡骸はこの地に運ばれクヌギ林の傍らに墓所があります。

  

 



 「蘆花恒春園」
   〒157-0063 東京都世田谷区粕谷1-20-1
   電話番号 03-3302-5016
   開園時間 AM9:00〜PM4:30
   休園日 12月29日〜1月3日