泉涌寺来迎院 (せんにゅうじらいごういん)



 京都でも屈指の紅葉の名所である東福寺、11月下旬ともなれば平日でも駅のホームから溢れんばかりの観光客でごった返し、まさしくアウシュビッツ状態になる紅葉狩りの代表的なスポットですが、この東福寺の東側にある泉涌寺も同様に紅葉の美しい場所で、東福寺に比べてやや知名度が劣るせいか幾分観光客は控えめになり、さらにその山内にある幾つかの塔頭はわりと静かに錦繍の世界に浸れることが出来たりします。泉涌寺本坊の一つ手前を左に入り、さらにその先を今熊野観音へは行かずにすぐ右手に進んでしばらく行くと、左手に石橋の架かる来迎院という塔頭の前に出ます。判りにくい場所にある為かここまでくると観光客は疎らで、京都でも秋の休日の午後を一人静かに紅葉が楽しめる穴場の一つです。

 

  

 この来迎院は、当地で平安期に空海が三宝荒神を奉安し、鎌倉初期の1218年(健保6年)に泉涌寺の子院として諸堂が創建されたのがその由来で、今でも山門奥の高台に荒神堂が建てられており、そこに荒神坐像(国重文)が安置されて祀られています。
 ところでこの来迎院は忠臣蔵で知られる大石良雄(内蔵助)が討ち入り前に隠棲していた寺で、かくれ里のようなひっそりとした環境を甚く気に入り、書院と茶室をこさえてここで志士達と謀議に耽っていたとの話があります。
 が、その茶室や書院は1884年(明治17年)まではあったもののその後買い取られて行方不明となり、寺も荒れるに任せていたようなのですが、1925年(大正14年)に戦前の数寄屋建築の名工だった上坂浅次郎が私財も投じて本堂・庫裏・書院・茶室を再建し、今に見る姿となったという話です。
 ということで、ここは京都岡崎の清流亭(国重文)や住友有芳園といった戦前に造営された数寄屋の名品を数多く手がけた、名棟梁の上坂浅次郎が最晩年に関わった近代数寄屋建築を堪能する場所ということにもなります。
 庫裏横から木戸を開けて庭に入ると、まず書院の前に出ます。屋根が入母屋造りの平屋の建物で、奥へ続く茶室の待合も兼ねた構成。

 

 

 書院の奥に茶室の「含翠軒」があります。席名は大石良雄が空海由縁の独銛水と呼ばれる名水が湧き出ることや、林泉濃い山内に因んで命名されたようで、確かに周囲は深い森の中。席前には池もあります。
 外観は屋根が切妻造り銅板葺で、妻側正面に銅板の深い庇を付けており、その庇の下に躙口を、脇の土間庇の下に貴人口を開けた構成。屋根や庇が複雑に連なる光景は少し目に煩い感がありますが、勾配が緩いのと銅板を採用したせいか軽快でモダンな味わいがあります。また上坂浅次郎の代表作でもある清流亭の茶室「白鷺」にも似ており、隣の書院も外観が清流亭のにやはり似ていて、配置構成も近いことから、相似形でスケールダウンした作品とも言えるのかもしれません。

 

 内部はちょっとばかり変わった平面を持ち、客座側は一畳+台目二畳、点前側は一畳が敷かれ、その間に中板が入る構成。大徳寺玉林院の蓑庵が三畳中板の間取りなのですが、その客座側の二畳を一畳+台目二畳に変更した型となっています。二畳台目の間取りを3割増しにしたような構成で、小間に多い緊密性の高い厳粛な茶の空間というよりは、使い勝手を重視した茶室なのでしょう。
 窓の多いことも特徴の一つで、また何れの窓も広く取られており、特に床の墨跡窓も大きな下地窓が開けられているせいか非常に明るい内部空間です。
 下座床の床柱は赤松皮付に床框は手斧はつりで、屋根が床前一畳分が網代に点前側が蒲落、残りは掛込天井の構成。さらに中柱の曲がりの形状やその裏の二重吊り棚等も蓑庵の構成に似ており、蓑庵をベースに近代数寄屋らしく明快性を織り込んだ茶室と言えます。

  

  

 茶室前には伽藍型の蹲踞もあり、八面仏の石燈籠も置かれています。庭園は茶室と同名の「含翠庭」と呼ばれており、池と言うよりは沼を思わせる森の池泉が密やかに広がっていて、特に紅葉の頃は幽玄といった言葉がぴったり。

  



 「泉涌寺来迎院」
   〒605-0977 京都府京都市東山区泉涌寺山内町33
   電話番号 075-561-8813
   拝観時間 AM9:00〜PM5:00 無休