大崎八幡宮 (おおさきはちまんぐう) 国宝



 1945年(昭和20年)7月10日の米軍による仙台空襲によって、杜の都と謳われた美しい街並みも灰燼に帰し、独眼竜こと伊達政宗公の造営した青葉城や、政宗公の壮麗な霊廟建築だった瑞鳳殿も全て失われてしまいました。そのスケールが大きく煌びやかなキャラクターだった政宗の残した遺産は数少なくなり、松島の瑞巌寺と仙台市内の大崎八幡宮の二つが、戦後まで生き延びた代表選手ということになります。
 この大崎八幡宮は市内からやや西寄りに位置し中心部からは外れ、周囲を鬱蒼とした社の森が覆い、その敷地を政宗が築造させた用水路が走るおかげか、防災防火には万全だったようで延焼には罹災せず、今も見られるその壮麗な社殿群が鎮座するというわけです。
 南北に非常に長い境内で、まず国道48号線の大通り沿いに大きな一の鳥居を構え、参道を進むと二の鳥居と用水路を渡る石橋が続き、その奥に神社創建時から残る急傾斜の大石段が待ち構え、登り終えると三の鳥居が現れてさらに参道は奥へと進み、約200m先に社殿がようやく登場します。大石段にある燈籠は政宗の兜を模してか三日月模様。

 

  

 大崎八幡宮は、元々は奥州管領だった大崎氏が宮城県遠田郡田尻町に鎮守社として創建した神社で、大崎氏滅亡後は伊達政宗が居城の玉造郡岩出山に移し、さらに慶長年間の青葉城築城に際して当地に勧請して創建された由来があります。1604年(慶長9年)に社殿群は起工され、その3年後の1607年(慶長12年)8月12日に竣工しており、上方から豊臣家に仕えていた腕っこきの宮大工を招聘して組まれた、桃山期を代表する神社建築として知られています。
 その豪華で壮麗な社殿群の前には、割拝殿形式の長床が行く手を遮ります。前塀の役目も兼ねているようで、西回廊と祭儀棟と合わせて社殿前を囲んでおり、白砂を敷き詰めた社殿周りを聖域とする為の結界の意味もあるのでしょう。その長床の中央通路は門として機能させ、東側は社務所、西側が神楽殿と楽屋として使用されていたようです。社殿と同時期に建造されており、国の重要文化財指定。

 

 長床の奥に位置するのが国宝の社殿。いわゆる権現造りの形式で、本殿と拝殿が一体化した構成で、この形式としては京都の北野天満宮社殿と共に最古のもの。
 外観は本殿と拝殿が入母屋造りの柿葺屋根で、拝殿の正面に千鳥破風屋根の向拝が付き、本殿と拝殿の間に入る石の間が両下造の柿葺屋根。大きさは、本殿が桁行5間奥行3間、拝殿が桁行7間奥行3間となり、石の間は桁行1間奥行1間となります。
 権現造りは幾つもの棟を並べた複雑な平面を持つことから”八棟造り”とも呼ばれ、その社殿は大型化し装飾性も華やかになりやすいことから時の権力者による普請が多くなり、特に桃山期から江戸初期にかけての復興大型建築のラッシュ(方広寺大仏殿・東寺金堂・清水寺本堂・延暦寺根本中堂等)と呼応するような面がありました。この権現造りの初期の建物として北野天満宮の他には秀吉の霊廟である豊国廟(後に破却)があり、その後日光東照宮や輪王寺大猷院等が建造されていきますが、いずれも時の最高権力者の霊廟に多くみられており、中央政府から遠く離れた東北の地に当時最先端のこの建築様式が伝搬したのは、政宗の先進性と絶大なカリスマ性に依るものなのでしょう。

 

 権現造りは本来は別の目的で建築された本殿と拝殿を一体化し、その間を石の間という折衝空間で繋いだ形式で、この石の間の部分が最大の特徴となります。元々は土間だったものに床板や畳が敷かれたり、同じ高さで本殿と拝殿が連結されたりとその空間は多様性を見せ、この大崎八幡宮も床板や階段が一様に黒漆が塗られた荘重かつ落ち着いた空間となっています。残念ながら内部非公開。

 

 外部でも板壁や軸部にはこの黒漆が使われ、華麗な装飾を際立たせるためのベースとして効果を上げており、特に金箔とのコントラストは絶妙。装飾過剰な日光東照宮と比べて意匠としての切れ味を失わず、装飾を上部に集中させることによって下部を黒子状態に消させ、社殿全体に軽快な浮遊感をも持たせています。この感覚こそが政宗独特のスタイリッシュな美意識。

  

 そしてその華麗な装飾もこの社殿の大きな特徴であり、長押・頭貫・組物等に極彩色の文様が入れられ、虎や龍に猫に牡丹等の彫刻が所狭しと鮮やかな彩色で配されています。拝殿正面の千鳥破風には金箔の鶴の精緻な彫刻もあり、桃山期らしい豪華で雄大な時代を代表する建物です。

 

 

 



 「大崎八幡宮」
   〒980-0871 宮城県仙台市青葉区八幡4-6-1
   電話番号 022-234-3606
   境内自由