大前神社 (おおさきじんじゃ) 重要文化財



 往年の大映映画「妖怪百物語」に登場するろくろ首は、御法度の鯉を捌いた報いによるエピソードでしたが、真岡の大前神社にも傍を流れる五行川で釣った御禁制の鯉を捌いたことから怪奇現象が発生し、その呪縛を解く為の供養が行われたという伝説が残されています。今でも鯉を神の使いとして神聖視して神職が鯉を食さない伝統を守っており、境内にある日本一大きな恵比寿様も懐には鯛ではなく鯉を抱えているほど。社殿には夥しい数の龍の彫刻も見られるので、どのみち水に関係する神社ではあるようです。

 

 真岡市のある芳賀郡は平坦で河川が多く、昔から洪水の多い土地柄でした。五行川も御多分に漏れずよく氾濫を起こし、特にこの真岡は湿地帯で大前神社の周囲も沼だったようです。創建が千五百年前という古い歴史を持つ神社ですが、治水が最も重要な案件だった土地由縁が、水にまつわるエピソードが残る理由なのでしょうね。
 境内はその五行川に沿うように南北に長く参道が延ばされ、川の形状に合わせて緩く曲線を描きます。ちなみに増水の際には氾濫しないほうの岸側。参道には沢山の鳥居が続きますが、社務所前の大きな両部鳥居(1802年建造)だけが県の文化財指定。

 

 歴史を紐解くと767年に社殿が再建とあるので、それ以前にも何か磐座らしきものでもあったのでしょう,、今に見る社殿は桃山期に建造され江戸中期にかけて数回改築されたもの。一見すると本殿と拝殿が石の間で繋がった権現造りに見えますが、よく見ると拝殿と本殿はぞれぞれ独立して建てられており、後年に拝殿が建てられた際に屋根だけが繋がったというわけです。拝殿は江戸中期の元禄期の初め(1688年)の建造で、屋根が入母屋造りの銅板葺に千鳥破風が正面に乗り、その手前に唐破風の向拝が取り付く構成。後ろに連なる幣殿を挟んで奥に位置する本殿は、桃山期の1593年(文禄二年)の建造で、屋根が同様に入母屋造りの銅板葺ですが正面に向拝が付きます。共に国の重要文化財指定。

 

 

 双方ともに装飾が多い社殿ですが、増築された拝殿は正面の千鳥破風と向拝にだけ彫刻が施されてあるだけで、他の箇所は幣殿共々簡素な意匠です。おそらく本殿も当初はシンプルな建物だったはずで、元禄期から宝永期にかけての改築によって今に見る姿に変貌していったのでしょう。なんでも成田山新勝寺三重塔にも関わる職人が携わったそうなので、あの最も装飾性が過激なことで知られる塔に共通する、参拝者を驚かす極彩色の派手な彫刻や紋様で埋め尽くされています。この時期の北関東は装飾性の際立つ寺社建築の優品が多く、時系列で見るとこの大前神社が1705年、新勝寺三重塔が1712年、妙義神社が1756年,、歓喜院聖天堂が1760年と続いていきます。この理由は18世紀になると幕府や諸藩の財政が悪化し庇護が得られなくなり、大衆性をアピールすることによって参拝客を呼び込み浄財を集める必要性が出てきたからで、これが最初に始まったのがこの北関東というわけですね。当時は今と違って娯楽に乏しく、江戸に程近い北関東へ温泉とセットで参拝に行くのが一番のレジャーだったんじゃないでしょうか。

 

 

 装飾と言えばこの社殿の特徴の一つに、向拝を支える柱に地紋彫が見られることで、これは同じ下野国の日光東照宮と同じ手法。柱の存在を薄めて柱上の装飾物を相対的に強める作用があるそうです。日光東照宮と言えば過剰なまでの装飾物で組み上げられた建築物のプロトタイプですから、比較的御近所の当地へその意匠が伝播していったのでしょうね。

 

 彫刻は謂れのある鯉や龍をモチーフしたものが多く、風水に関わる白兎や猿も見られます。波の紋様ををバックにしているのは、鯉や龍と同様に防火の意味合いも込められてあるのでしょうね。

 

 



 「大前神社」
  〒321-4304 栃木県真岡市東郷937
  電話番号 0285-82-2509