御花 (おばな)



 西鉄天神大牟田線の西鉄柳川駅にわざわざ「西鉄」とあるのは、旧国鉄時代に佐賀線と言う赤字ローカル線があり、その路線に筑後柳河駅と言う駅が御近所にあったことからで、柳川市の中心部もだいたいこの二つの駅に挟まれた一帯です。柳河藩の城下町として栄えた柳川も、近代になって公共の交通網が整備されてからは町の形成が大きく変わったようで、今は市立柳城中学校となった旧柳川城界隈はそれぞれの駅から2km程も離れており、周囲は武家屋敷も残る住宅街に埋もれています。この城周辺に観光スポットが集中しているので、駅前からはバスかレンタサイクルか、掘割をドンコ船に乗って川下りで訪れるのが無難でしょう。
 でその柳川城は、なんでも明治維新の際に失火により天守閣と御殿を焼失しているそうで、その火事の前に家財や貴重品を移しておいたのが、近所にあった別邸の「御花」。旧藩主だった立花伯爵の御屋敷で、現在は観覧施設としてだけでなく、料亭や旅館、はては結婚式場としても活用されており、市内最大の観光スポットとして平日でも賑わいを見せています。

 

 ここは嘗ての城下町の区割りで見ると外堀の南西隅にあたる場所で、1738年(元文3年)に5代藩主の立花貞俶が別邸を構えたことがその始まり。元々は「花畠」と呼ばれる藩の御薬園があった場所だそうで、名称の由来もそこから。明治期になって最後の藩主である13代立花鑑寛が隠居場所として当地に移り住み、「御隠邸」「御本邸」と呼ばれる屋敷を構えたことが皮切りとなり、その後1899年(明治22年)に鑑寛の跡を継いだ14代立花寛治伯爵が東京から帰京して順次建物を整備したのが今に見る豪邸群で、1910年から1912年(明治43年〜45年)にかけて完成しています。敷地は約7000坪程あり、外堀と中堀に囲まれた土地に、西洋館・大広間・御居間・御役間などの建物が整然と建ち並び、南側にはスケールの大きな美しい庭園が広がります。
 当初は伝統的な日本建築による和館をメインにする予定だったらしいのですが、この頃になると東京湯島の岩崎邸や桑名の諸戸邸のように洋館を迎賓館としてまず目立つ所に配置し、その裏手に和館を連ねるのが富裕層の流行だったらしく、ここでも門奥の真っ正面に白亜の西洋館が建てられています。外観は屋根がスレート葺の一部銅板葺による木造二階建てで、外壁はドイツ式下見板張りに白ペンキを塗ってあります。小規模な洋館ですが立ちが高いせいもあって、周囲を睥睨するかのような堂々とした姿の外観です。

 

 細部の意匠としてはフレンチルネサンス様式を規範としており、中央上部のペディメント(三角破風)や窓の上部のキーストーンに似せた石造りを思わせる仕上げに、暖炉用の太い煙突上部の紋様などフランス風の典雅で上質な住宅建築が採用されています。正面中央に大きく張り出した車寄せも、三連のイオニア式柱で支えてありとても印象的な姿です。

 

  

 内部は一階が食堂と応接間が並び、二階に謁見室である広間と婦人室等が並びます。特に一階の玄関ホールが見所の一つで、三連のアーチ窓が車寄せと同様のイオニア式による柱で支えられ、そのアーチ上部も外壁同様にキーストーンを付けて高貴な気配を漂わせています。この柱も一本木の削り出しによるもの。
 他にも階段部親柱や廊下天井部の中心飾りなど装飾性が非常に豊かですが、外観のフランス風の典雅な意匠と言うよりはイギリス風の重厚な意匠で、旧大名家ということで格式の高さを強調したかったのでしょうか?

  

  

 玄関ホールと並ぶ見所の一つは二階の謁見室。8.5mX10m弱の大広間となっていて、天井は板張りで中心部に豪華なレリーフを付け、マントルピースや柱の飾りなど鹿鳴館風の華麗な意匠でまとめられており、舞踏会でも開けそうな優雅な空間が広がります。実際に戦後は貸出施設として地元の社交場として機能していたようですね。
 車寄せ上部はこじんまりとした婦人室で、三方をガラス窓に囲まれた見晴らしの良い明るい部屋です。

 

  

 この西洋館と中庭を挟んで南側に建てられているのが重厚な面構えの和館の大広間。こちらは洋館よりも一足早く完成しており、屋根が入母屋造りの桟瓦葺で、禅宗寺院のように裳階のような瓦と銅板とによる庇が取り回してあります。元々はこちらがメインで予定されていたもので、式台付きの格式高い純和風建築を想定していたようですが、途中で洋館がその式台に変わったような姿に変更になっている為に、この建物に玄関はありません。

 

 内部は上段から18畳の一の間・18畳の二の間・12畳の三の間が続き、南北に約一間の畳廊下が並ぶ構成で、戸を全部取っ払うと100畳敷きとして使えます。素材は全て木曾檜で、東西の両端に付書院や違い棚を備えた書院造となっていますが、西端は現在舞台に変更されています。ここでは結婚式の披露宴会場としても使われているので、カラオケ合戦の舞台にでもなっているのでしょう。ちなみに二の間と三の間の畳を取ると、能舞台ともなるようで、ここらあたりは唐津の炭鉱王の豪邸だった高取邸と同じ趣向。
 南側は庭園の眺めが良く、夏場は開放し冬場になると雪見障子で楽しめます。付書院の欄間の透かし彫りは、海を模した庭園に由来してか波濤のデザインが。

 

 

 その庭園は松濤園(しょうとうえん)と呼ばれる池泉観賞式のもので、面積が4100uの内その大半は池。なんでも松島の姿を再現させているとかで、名前の由来もそこから。掘割の水を引き入れた池には大小100個ばかりの小島や岩礁が置かれ、植樹されている松も実際に松島から移植されているとか。以前はこの松濤園のみ国の名勝指定でしたが、現在は敷地全部が指定を受けています。

 

 西洋館と大広間とを繋ぐ渡り廊下的な形で、西洋館の東側に御役間という事務室があります。使用人が詰める簡素な二階建ての木造建築ですが、雛祭りの頃になると一階では部屋いっぱいに豪華な雛飾りが置かれ、天井からは「さげもん」と呼ばれるこの地方独特の飾りつけが吊るされて、この御花が一番華やぐ季節となります。

 



 「柳川藩主立花邸・御花」
  〒832-0069 福岡県柳川市新外町1
  電話番号 0944-73-2189
  開館時間 AM9:00〜PM6:00
  休館日 無休