貫前神社 (ぬきさきじんじゃ) 重要文化財



 本当は信州まで敷設するつもりだったらしい上信電鉄は、昭和初期の世界大恐慌で計画が頓挫してしまい、葱と蒟蒻で有名な下仁田駅でドン詰まりとなってしまった哀しき寂しいローカル私鉄路線。上州姫街道沿いのやけに埃っぽい麦畑が広がる田園地帯をのんびりとのたくた走り(普通電車しかない)、終点近くになればなるほど年季の入った木造無人駅が次々と登場して、少しばかり旅情感なども醸し出したりしています。
 終点近くの上州一ノ宮駅もそんな木造無人駅の一つ。鏑川(かぶらがわ)沿いの崖っ淵にポツンと佇むこの小さな駅舎から500m程西へ進むと、駅の名前の由来になった上野国一宮神社である貫前神社があります。石段と大鳥居で構成される広い参道からは、西上州の山々とその谷間に抱かれた姫街道沿いの街並みが、眼下に一望出来ます。

 

 正式名称が「一之宮貫前神社」となるこの神社は、創建が6世紀の安閑天皇の頃。武神の「経津主神(ふつぬしのかみ)」と、農耕・機織の神である「比売大神(ひめおおかみ)」の男女二神を祀るお社ですが、江戸期までは貫前(ぬきさき)とは別に「抜鉾(ぬきほこ)神社」の別名もあったそうで、それぞれ男女の陰陽を表現しており、さらに境内に摂社として月読神社もあることから、男女の交接に関わる神社ということなのかもしれません。
 その由縁は境内の構成にも見られ、社殿群は参道の大鳥居や総門よりも低い窪地に広がっており、社殿の周囲を樹齢千年以上の原生林で覆います。男女の交接という視点で考えてみると、この神社の境内は女体を表し、社殿は子宮で、南側に真直ぐに広く伸ばされた参道は膣ということになります。鬱蒼と茂る森に守られた谷底は胎内を思わせるもので、樹齢千年以上の大木が発する気のせいか不思議な生命感が漂います。
 このように社殿が鳥居や門よりも下にあり、参道の石段を降りてお参りする神社を「下り宮」と呼ぶそうで、この貫前神社以外では阿蘇の草部吉見神社と宮崎の鵜戸神宮でも見られます。
 正面の楼門は江戸初期の1635年(寛永12年)に建造された一間一戸の大型の門で、国の重要文化財指定。

 

 

 今に見る社殿群は寛永年間に徳川家光の寄進によって整えられたもので、江戸初期に多く造営された極彩色の装飾豊かな壮麗な社殿が並びます。南側に楼門が建ち、その奥に拝殿と本殿が直列に並び、周囲を回廊が囲みます。何れも1635年(寛永12年)の建造。
 拝殿は屋根が入母屋造りの檜皮葺で、大きさは桁行3間奥行3間。正面平入りに唐破風が付きます。建物の内外全体に朱の漆が塗られていますが、軒下の壁面や柱・梁部には全てを覆い尽くす様に様々な紋様や絵によって彩色が施されており、特に絵には馬達が川で遊ぶ姿がモチーフされていて、馬の文化が強い東日本ならではの題材ということなのかもしれません。国の重要文化財指定。

 

 

 奥の本殿は屋根が入母屋造りの檜皮葺で、大きさは拝殿と同じ桁行3間奥行3間。但し妻の方向が異なり、こちらは正面妻入りで3間の向拝が付きます。一見すると春日大社の春日造りに似ていますが、内部が二重構造になっており、下層の前方1間を外陣、後方1間を内陣とし、上層を内々陣として奥に神座を置き、内陣から内々陣へ階段が掛けられる特異な構造で、「貫前造」と呼ばれる固有のものです。
 拝殿同様に全体に朱漆や黒漆が塗られ極彩色の装飾が施されていますが、この本殿では正面妻部に「雷神小窓」と呼ばれる雷神が描かれた小さな窓が開けられています。当地方は雷の多く発生する土地で、さらにこの窓が開いている方向には雷多発スポットの稲包山があることから、畏怖されて雷神様を祀っているのでしょう。
 国の重要文化財指定。

 

 

 約2万6千坪の広い境内は杉・クスノキ・イチョウ・スダジイ等の古木が豊かな森を形成しており、特に本殿背後には樹齢1200年の「藤太杉」と呼ばれる大杉が天に向かって屹立しています。

 



 「一之宮貫前神社」
   〒370-2452 群馬県富岡市一ノ宮1535
   電話番号 0274-62-2009