仁和寺金堂・御影堂 (にんなじこんどう・みえいどう) 国宝



 京都でお寺めぐりをしていると、あちこちの寺で門跡寺院なる言葉を眼にします。この門跡とは皇室の方が仏門に入ることをさし、権力者の庇護が高かった密教寺院に数多く見られます。特に天台宗は大原の三千院や一乗寺の曼殊院、東山の青蓮院に妙法院と名刹が並び、いずれも御殿のような貴族の住宅風の建物がその特徴。真言宗にも幾つか見られ、嵯峨の大覚寺と御室の仁和寺がその代表例で、それぞれ嵯峨御所・御室御所と呼ばれて親しまれています。天台の住宅風に比べて真言密教は大伽藍を組むことが多く、特に仁和寺は9万uもの広大な敷地に金堂や五重塔・観音堂などが立ち並ぶ、東寺や醍醐寺と同様の真言宗らしい大振りな外観の寺院です。皇室縁のせいか御所の建物を下賜されることがあり、大覚寺の宸殿が御所の女御御殿だったのと同様に、この仁和寺にも御所の建物が幾つか下賜されており、そのうち紫宸殿が金堂に、清涼殿が御影堂になり現在に至ります。
 その金堂は仁王門を潜って広い参道を進んだドン詰まりにあり、広すぎる境内のために門からは歩いて10分くらいもかかります。この金堂、一目見て他の仏堂とは一味違う外観で、いかにもやんごとなき方々がお住まいなられた優雅な建物。この仁和寺は平安期に光孝天皇が着工し、息子の宇多天皇が888年(仁和4年)に完成して出家し入山、その後も皇室の方々が次々に出家入山し明治維新まで続いたいたという、皇室絡みのお寺。というわけで、このように御所の建物が次々に移築されたというわけです。

 

 皇室の庇護により中世には隆盛を極めた堂塔も、応仁の乱などにより悉く廃塵に帰し衰退しましたが、江戸初期に御所が建替えを行ったので、その際に紫宸殿・清涼殿・常御殿・御台所門・西唐門を賜り伽藍を整備しました。現在残っているのは紫宸殿・清涼殿、それに御台所門で、紫宸殿としては現在最も古い遺構です。金堂は1613年(慶長18年)に建造され、この仁和寺へ移築されたのは1642年(寛永19年)。大きさは桁行7間奥行5間で、屋根が本瓦葺きの入母屋造り。国宝に指定されています。

 

 さすがに紫宸殿をそのまま使うのでは勝手が悪いのか、色々と改造はされています。西庇を取っ払い、檜皮葺の屋根を本瓦葺きにし、内部の南通りに板扉を入れるなど仏堂としての機能性を織り込ませていますが、構造自体には改変が無い為、江戸初期の紫宸殿の特徴がよく残されています。また正面の蔀戸や柱上の舟肘木も、中世の貴族の住宅だった名残を留めています。この蔀戸と柱には黒漆が塗られており、白壁によく映えて美しいコントラストを与えています。さらに金をあしらった建具や金具が多く使われており、効果的なアクセントになっています。さすが皇室縁か菊の御紋がやたらと目に付きます。

 

 

 内部では紫宸殿から改造する際に、密教寺院らしく内陣・外陣と結界を設ける為に南通りに板扉を嵌め、北側に須弥檀を設ける為に狩野孝信筆の賢聖障子32面が取り除かれ来迎壁を追加しました。この来迎壁や柱には極彩色の極楽図や地獄図が描かれ、荘厳な趣が漂います。屋根も天井板がない独特の構成。あらゆる点で他の仏堂とは趣が違う、特異な美しさを持つ建物です。

 

 金堂の西にある御影堂は10m四方の小さな仏堂で、御所の清涼殿の材料を使って組み上げた建物。金堂の様に移築ではなく再編されたものなので、かつての清涼殿の姿をそこに求めるのは無理なのですが、そこかしこに清涼殿の旧材が当てはめられているので、パズルの様に自分の頭の中に組み合わせて見るのも一興かもしれません。金堂同様に蔀戸や舟肘木など意匠は御所のものですし、屋根が檜皮葺きのままなのも御所の頃の面影を伝えるものでしょう。こじんまりとしていますが、雅やかで優美な仏堂です。国の重要文化財指定。

 

 



 「仁和寺」
   〒616-8092 京都府京都市右京区御室大内33
   電話番号 075-461-1155
   拝観時間 境内AM7:30〜PM4:30
   拝観休止日 無休
   拝観料 境内自由