南宗寺 (なんしゅうじ) 重要文化財



 千利休は堺の豪商の出ですから、当然その堺にも因んだ旧跡があると思いきやさにあらず、利休の足跡を伝える場所は数少なく、発掘されて近年整備された旧居跡(井戸が残るのみ)と、遺愛の品と伝えられる石灯籠が日蓮宗の妙国寺にあるぐらい。秀吉の怒りに触れて自刃しているので、あまり痕跡を留めていないのは仕方がないのかもしれません。
 市内中心部にある臨済宗寺院の南宗寺もそんな数少ない利休所縁のお寺で、千家一門の墓所があります。

 

 堺は「信長の野望」でも知られるように中世の自由交易都市として発展した町ですから、市内あっちこっちに由緒ある寺社仏閣が点在しており、特に浄土真宗や日蓮宗のお寺が目立つようです。そんな中でチンチン電車の阪堺電軌阪堺線御陵前駅近くの南旅篭町界隈は、茶道と関連の深い臨済宗のお寺が密集するスポットで、特に南宗寺と塔頭群を取り囲むように掘割のような川が流れており、信長や秀吉と対立した頃の中世都市面影が残る場所でもあったりします。
 小振りの北門を潜って山内に入りしばらく進むと今度は二階建ての大きな門が。これがこの寺の山門で、甘露門とも呼ばれています。三間一戸の楼門形式で建造は江戸初期の1647年(正保4年)。国の重要文化財指定。

 

 

 ちなみにこの寺は大坂夏の陣で全焼しているので、山内の建造物は全てそれ以降。さらには空襲にも罹災しているので、残されている建物はそれほど多いわけではありません。
 開基は戦国期の1557年(弘治3年)のことで、戦国武将だった三好長慶が父の菩提寺として京都大徳寺90世大林宗套(だいりんそうとう)を住職として迎えたのがその始まり。大徳寺と言えば茶道の総本山みたいなお寺ですからこの南宗寺も千利休の師匠である武野紹鴎が宗套和尚と交流を結び、利休もここで禅を学んで独自の世界を完成していくことになるので、後世の茶道に少なからず影響を与えたお寺ということになります。
 もちろん利休の頃の建物は何も残っていませんが、松の木の多い山内は禅寺らしい佇まいを見せており、利休が参禅した頃の雰囲気が感じられるのかもしれません。数少ない古建築の一つである仏殿も往時の風景を思い起こさせる物件の一つ。

 

 この仏殿は1653年(承応2年)に建立された方三間の仏堂で、屋根が入母屋造りの本瓦葺で裳越付き。桟唐戸や扇垂木など小規模ながら純粋な禅宗建築の仏堂で、大阪府では唯一のもの。国の重要文化財指定。
 内部も海老虹梁や柱下の礎盤に瓦の四半敷きと禅宗仏堂のパターン通りですが、江戸期ということか天井板を張って屋根裏を見せておらず、その天井には京都の大寺院における法堂(大徳寺・妙心寺・相国寺)のように雲龍図が描かれています。

 

  

 この仏殿の隣に小さな唐門があるのですが、この門の先には何もありません。ここには戦前に東照宮があったのですが、空襲で焼失しています。17世紀中頃の簡素な向唐門で、国の重要文化財指定。
 もう一つ古建築としては坐雲亭という小規模の二階建ての茶屋があり、山内最古の建物。

 

 本堂である方丈も空襲で焼失しているので、戦後再建されています。ここでは方丈前の庭園が見所で、奥に滝組と石橋を架け、渓流が大河となって白砂の大海に注ぐ典型的な枯山水の構成。織部好みと伝えられていますが、大徳寺大仙院と構成が似ており、大徳寺の沢庵和尚が夏の陣後の再建に尽力しているそうなので、本当はそちらなのかもしれません。ここは家康絡みの寺でもあるので、織部は夏の陣後に家康によって切腹してますしね。国の名勝指定。

 

 

 方丈から渡り廊下で茶室の「実相庵」が連なります。元々同じ堺市内の塩穴寺にあった茶室で、利休好みと伝えられていましたが、これも空襲であえなく焼失。戦後の1961年(昭和36年)に復元されたものです。
 二畳台目の下座床の平面構成で、給仕口が開き戸となっている点と、床の間の落掛に卒塔婆が嵌められている点に特徴があり、「卒塔婆の席」とも呼ばれています。実際には手法・材料から利休の時代まで遡ることは出来ないようで、後年に利休風の茶室を造ったのがその真相のようです。露地にある袈裟形の手水鉢は利休遺愛のもの。

 

  

 千家一門の墓所は、坐雲亭の隣。中央に利休の墓を置き、左に裏千家、右に表千家と並び、武者小路家が手前右手に並びます。師匠の武野紹鴎の墓も近くにあります。
 何故か家康のお墓があるそうで、一説によると夏の陣で家康はあえなく討ち死に、ここで葬られたという伝説がある模様。





 「南宗寺」
   〒590-0965 大阪府堺市堺区南旅篭町東3-1-2
   電話番号 072-232-1654
   拝観時間 AM9:00〜PM4:00 無休