永山武四郎邸 (ながやまたけしろうてい) 北海道指定文化財



 蝦夷が北海道と名称が変るのは明治維新翌年の1869年(明治2年)のこと。同年札幌に開拓使が設置され、脱亜入欧の方針から欧米流の近代化政策が相次いでと実施され、アイヌの住む辺境の地は文明の波に洗われて次々と開拓されて行きました。まずそのスタートとして札幌の都市化が行われ、辺鄙なただの原野が見る見るうちにボストン郊外の瀟洒な住宅街のような街並に生まれ変わり、これをモデルとして旭川や帯広も同じプランを踏襲して近代的な街づくりが進められていきました。これは当時の現役米国農務大臣を最高顧問として招来し、50人に及ぶ開拓顧問団が札幌に赴き米国風の都市化のプランを推進したことによるもので、時計台や豊平館に道庁本庁舎等の公共建築群はその遺構の数々。ただし住宅建築の遺構はあまり残されておらず、札幌駅北口近くの公園内に残る清華亭と、サッポロファクトリー隣の永山武四郎邸ぐらいしかありません。その永山邸は敷地が園地化されて永山記念公園として常時開放中。

 

 この家の当主だった永山武四郎は第二代北海道長官を務めた高官で、特に屯田兵の創設・育成に携わった人物。この邸宅は私邸として1880年(明治13年)頃に建造されたもので、北海道庁本庁舎や札幌農学校(今の北大)のちょうど真東にあたり、近辺は工業局製作所・屯田司令部・麦酒会社・紡績所・病院等の施設が建ち並ぶ、北海道開拓の拠点だった場所。その中枢にいた人物だったこともあり、仕事場に近い当地に邸宅を構えたのでしょう。でも敷地は広く緑も多くて、都心にあるとは思えないほど閑静な環境です。
 建物の外観は屋根が寄棟造りの亜鉛鉄板葺、外壁は下見板張の木造平屋建て。一見するとコテージ風の簡素な意匠でまとめられていますが、これも北米風の住宅建築の流れに沿ったもので、同時期に建造された時計台や清華亭も同様の意匠です。北海道有形文化財指定。

 

 西側に突き出た切妻屋根の玄関の内部は小さなホールとなり、その隣に洋間の応接室が続きます。15畳程の広さの白漆喰で塗り込められた大壁造りの部屋で、天井の電灯取り付け部のレリーフには細かい図案が施されており、豊平館と同様の和風の意匠。

 

 この洋間の奥は今度は15畳の書院造の表座敷で、それも長押を嵌め両違い棚を設けきちんと付書院もある、真に正統的な書院造。座敷に座り窓越しに庭の風景も眺められる純和風の空間ですが、振り返ると洋間が広がる不思議な眺めで、和洋折衷ではなく和と洋の空間が壁一枚で完全に分断されて相並ぶユニークな構成です。ちなみに清華亭も同様の趣向となっており、欧化政策と言いながらもやはり和の空間も欲しかったのでしょう。玄関に近い洋間も戸を閉めれば表座敷は見えないので、そのまま洋風空間のみで接客出来ますし。

 

 

 その表座敷の隣に8畳の脇座敷が並びます。こちらは表座敷に比べると少しくだけた意匠で、おそらく主人の居室だったのでは。隣には6畳の小座敷もあるので、この2つの座敷は当主のプライベートエリアだったのかもしれません。

 

 ちなみにこの家に浴室や台所はありません。玄関から北に連なって大きな付属棟が続き、家人の部屋や使用人室・台所等がありましたが明治末期に三菱合資会社に売却されてその後破却されました。今残る建物は接客用の貴賓室兼主人の居室だったもので、その為に生活感はあまり感じられません。
 この玄関から北へは1937年(昭和12年)頃に既存の建物を解体した部材を使って新規に木造に二階建ての建物が造られており、社員寮として1985年(昭和60年)まで使用されていました。白漆喰と下見板張の瀟洒な洋館ですが、寮だった為か内部には殆どが和室が並びます。内部への見学はこちらから入ります。

 

 



 「永山武四郎邸」
   〒060-0034 北海道札幌市中央区北2条東6丁目
   電話番号 011-232-0450
   開館時間 AM9:00〜PM4:00
   休館日 12月29日〜1月3日