永富家住宅 (ながとみけじゅうたく) 重要文化財



 JR山陽本線の竜野駅は市の中心部とは全くかけ離れた場所にポツンとある駅で、街中に行く場合は姫新線の本竜野駅が近く、竜野駅で降りても市街地へ向かうバスは殆どありません。今は平成の市町村合併でたつの市になりましたが、元々この竜野駅の行政区分は廃止された揖保川町で、実は龍野とは全く無関係の場所。おそらく山陽線の開通が明治中期と古く、醤油や素麺で知られる龍野の最寄駅ということで開業して馴染みがあり、昭和初期に後発の姫新線が市中心部に開通したたもののいまさら駅名を変えるわけにもいかず、長年にわたってこのような矛盾が生じていたわけなのでしょう。この竜野駅のある旧揖保川町は、龍野のように蔵や武家屋敷が点在する小京都と呼ばれるような風情のある城下町の街並などあるわけもなく、だだっ広い穀物地帯に揖保川がうねる様に流れ、田畑にスーパー・パチンコ・鉄工所が点在する、典型的な大都市圏近郊の田舎町。大阪から直通で新快速も運行されているので、駅周辺では宅地化も進んでいたりします。その旧揖保川町の揖保川沿いの河岸近くに、近在でも大庄屋と呼ばれる永富家の豪邸が残されており、千坪近い敷地に長屋門・主屋・蔵・納屋が建ち並んでいて、遠方からでもその屋敷の威容さが推し量れるほど。

 

 永富家は伊賀出身の武士の出で、室町後期の享禄年間に当地に土着して庄屋となり、一帯の開墾事業を進めて揖保川の河川事業も行い、江戸中期には藩の財政にも加担して在郷家臣にもなった大富豪の農家でした。このような破格の待遇を受けた家柄らしくその屋敷構えは尋常ではなく、江戸後期の文化文政期における当時の武家の没落とブルジョワジーの台頭とは無関係ではなかったようで、最も洗練された意匠で組み上げられた第一級の住宅建築となり、全国に残る豪農屋敷の中でも屈指の内容のものです。まずはその長大な長屋門に驚かされますが、これは主屋よりも建造が早く1805年(文化5年)に建てられたもので、隣に籾納屋と繋がっています。格式の高さを示すものなのでしょうが、城壁のような堅牢な造りなので、防犯の意味もあるのでしょう。籾納屋と共に国の重要文化財指定。

 

 長屋門を潜って白砂が眩い前庭の奥に、重厚な外観の主屋があります。長屋門に遅れること14年後の1822年(文政5年)に竣工した大型住宅建築で、梁行26.9m奥行18.3mに広さ153坪の一部二階建ての木造平屋建て。広大な面積を支える為か農家で多く見られる茅葺ではなく本瓦が葺かれており、入母屋の屋根に虫籠窓の開いた白壁の外観は豪農というよりは豪商の町家のようです。この永富家は代々当主が茶道や能に嗜む家柄とかで、江戸後期の豪農屋敷ということもあってか瀟洒な町家の様式美がそこかしこに見受られます。国の重要文化財指定。

 

 主屋前の前庭は厳粛に清められた白砂に、幾何学模様に石敷の通路が並ぶ美しい構成美を見せていますが、元来ここは作業場だった場所で、年貢米の検収等がおこなわれていました。その風景はまるで京都の禅寺における枯山水の庭園のようです。

 

 また入口も5ヶ所もあり、正面に殿様用の式台と脇にそれ以外の客と主人用の内玄関、その隣に家族や使用人用の大戸口が並び、別に裏口や脇口もあります。式台は木連格子の妻飾を乗せた入母屋造りの重厚なもので、農家とは思えない程の本格的な造りはまるで武家屋敷のようです。この玄関から幾つもの部屋が奥へと続きます。

 

 大戸口から建物内へ入るとそこは広い吹き抜けの土間。25坪の広さに柱を一本も立てずに野太い三本の大梁で空間を支え、その上に細かな梁組みで屋根裏を持ち上げています。その大蛇の様にうねりを見せる大梁は外観の端正で瀟洒な佇まいとは一転して土着的で野獣性を秘めており、ダイナミズムをも感じさせる圧倒的なもので、磨き上げられた端正な白壁とのコントラストも鮮烈な、豪快な空間を造りだしています。

 

 

 この土間は作業場である前庭が使えない雨天時や夜間用にこのような広い空間を必要としたようで、隅には精米用の唐臼もあります。また四畳の女中部屋も土間内にありますが、当家では今でも定期的に茶会が開かれているようで、ここが寄付として機能しているようです。

 

 土間奥は格子戸によって分けられた釜屋がありますが、天井は同じ梁組みです。使用人が多かったせいか竈が2ヶ所に分かれており、それぞれ用途によって使い分けられていたとか。竈の奥に板敷の下台所が続きます。

 

 土間に並んだ床上は差鴨居を嵌めた端正な座敷が並びます。本当に部屋数の多い住宅で、全部で23部屋も数えるほど。農家の住宅建築としては破格の規模で、幾つもの部屋が整然と並ぶ風景は上級武士の武家屋敷を彷彿とさせます。

 

 主屋の南西部分は殿様が来場した際に使われる接客部で、式台から玄関を伝って座敷が並び、外側には畳廊下の鞘の間が走って、さらにはその外側には広縁も付けられています。障壁画や襖絵等の凝った意匠はありませんが、何れも長押を打ったシンプルで端正な造りは禅寺の客殿を思わせます。この広縁は深い庇の軒裏を疎垂木で支え、その垂木を一本の長い磨丸太で押さえた吹き放しになっており、佇まいの美しい透けきった空間になっています。

 

  

 下座敷・中座敷・上座敷が東西に直列に並び、上座敷の北側に上段の間が続きます。いわゆる矩折に座敷が並んでいるのですが、このあたりの構成が秀逸で、まず式台から進んで上座敷に至ると正面に二間前面に付けられた大床に対し、そこで北側に向けると一段上がった上段の間となり、細かい欄間に長押を嵌めた本格的な書院造の部屋に入るという趣向。特にこの上段の間は床周りに桜貝と砂を混ぜて塗ったあり、近づいて見るとキラキラ妖しく光る幻想的な部屋でもあります。この主屋の木材や建具は、大坂から船運で揖保川を上って運ばれたそうで、手の込んだ上質の部材や技術がこの空間に散りばめられており、地方の豪農屋敷の野暮ったさとは異なる上方の洗練された意匠がそこかしこに感じ取れます。

 

 

 もちろん上段の間から眺める庭園も瀟洒で美しく、様々な石灯籠が風景にアクセントを添えます。かつては庭園内に2つ茶室があったそうで、その露地庭も兼ねていたのでしょうか、延段や飛石が多く配されています。

 

 主屋の北側は家族用の居室部となります。釜屋の床上が板敷の下台所となり、その北側に料理の間が並ぶ構成で、このあたりは使用人達の場。この下台所の西側に家族用の八畳敷きによる台所があり、釜屋一帯を見渡せるように一段高くなっているので、使用人達の監視でもしていたのでしょう。さらに台所の西側は奥の間で、茶事でも行うのか炉も切られています。このあたりは物置や便所も近いので、家族の普段の生活での中心となる場だったのでしょう。

 

 奥の間のさらに西側は小間が幾つか並びます。家族の個室でもあったのか三畳から六畳の部屋が組み合わされており、部材も細くなりそれぞれ炉も切られ床も設えた数寄屋風の造り。このあたりは上段の間の裏側にあたります。

 

 さらに西側に主屋から突き出すように二階建ての部屋があり、実はここは主屋の建造よりも古いもので、1814年(文化11年)に建てられたもの。主屋は1756年(宝暦6年)に建設されてから増改築を行っており、この二階部もその際に増築された箇所らしく、その後主屋を再建して繋げたようです。一階は茶室になっていて、周囲は木戸に延段・石灯籠・蹲踞と露地も造られています。能や茶道を嗜む文化レベルの高い家風からなのでしょう、都市部の上層町家に見られる繊細で優美な佇まいとの共通項が見られており、船運により京や大坂の文化が自然と伝わっていった証しなのかもしれません。

 

  

 主屋の背面にはズラリと蔵群が並びます。東蔵・味噌蔵・内蔵・乾蔵と続き、庭には一番大きな大蔵もあります。これ全て国の重要文化財指定。この他にも漬物部屋・料理部屋・井戸のある洗い場と並び、この大きな庄屋のそれこそ生活の心臓部として機能していたのでしょう。主屋の南側の接客空間と対比してみると興味深いです。

  



 「永富家住宅」
   〒671-1611 兵庫県たつの市揖保川町新在家337
   電話番号 0791-72-4323
   開館時間 AM10:00〜PM4:00
   休館日 月曜日(祝日は翌日)