三笠ホテル (みかさホテル) 重要文化財



 軽井沢が避暑地として発見され開発を始めたきっかけは、1886年(明治19年)に宣教師A・C・ショーと東大教師J・M・ジャクソンが訪れてひと夏を過ごしたことから。二人が友人知人に喧伝したおかげで西洋人の間に避暑地としての快適性が広まり、特に1893年(明治26年)の信越線開通により在留外人の逗留が急増し、夏の外国人村として整備されていきます。当然別荘を持たない観光客も多いことからホテルの建設が必要となり、万平ホテルなどの西洋人向けのホテルが建てられていきますが、その先駆けとなったのは町内北部の浅間山麓にある三笠ホテル。1906年(明治39年)に開業した本格的なホテルで、木造純西洋式のホテルとしては、札幌の豊平館に次ぐ古い歴史を持つクラシックホテルです。

 

 ホテルを建造したのは明治期の実業家だった山本直良。作曲家の山本直純氏の祖父で、日本郵船や明治製菓の役員を務めた経歴があり、牧場経営を目論んで同地の土地約25万坪を購入したものの土壌の関係から断念し、ホテル事業へ転換したのが開業の経緯です。ホテルの建設は1904年(明治37年)に着工しており、設計に辰野金吾の弟子だった洋行帰りの岡田時太郎が担当し、地元の大工達によって施行されています。当時の軽井沢は宣教師が開いた避暑地ということから質素な山小屋風の別荘が多く、このような豪華な西洋館は目新しかったでしょうし、まして日本人だけで造り上げたというのも特筆するべきことです。
 開業後は外務省や進駐軍に接収されたりと色々と変遷を経て、ホテル営業自体は1970年(昭和45年)に廃業していますが、国の重要文化財の指定も受けたことから修復保存事業が行われて、観光施設として公開中。

 

 建築面積は513.62uあり、木造二階建てで屋根がスレート葺。外観は19世紀後半にアメリカで流行したスティックスタイルで、梁や柱などの構造体を隠さずに装飾的に強調させた様式です。お化粧したハーフティンバーということでしょうかね。岡田時次郎が北米で修行して来たのでその影響なのでしょう。破風屋根の軒下の腕木が湾曲しているのもその影響で、さしずめ日本建築のせがい造りと似ています。
 正面から見ると玄関ポーチから左右へ翼廊が伸ばされた左右対称形に見えるのですが、西翼の奥に八角屋根の塔屋が取り付いてあるので少しずらせた意匠となっており、また壁面の下見板もよく見ると一階部と二階部では張り方が異なっていて、一階がドイツ式で二階がアメリカ式に張られています。あくまでも非日常的な接客空間ということからか、外観の意匠に変化を付けた建築家のこだわりが反映されているのかもしれません。

 

 

 実はこの建物は移築されており、元の場所から北側へ70m程動かしてあります。その際に建物の半分は破却されており、前半分だけが今に残る姿。中庭を挟んでかつて広がっていた大浴室や、東翼棟奥にあった食堂や酒場はもうありません。この東翼棟と西翼棟は一階部の目的が分けられていたようで、西翼棟は客室が整然と並びますが、東翼棟はロビー・居間・食堂・酒場で構成された社交場となり、”軽井沢の鹿鳴館”と称されたゴージャスな空間が広がっていたようです。現在残されたロビーホールにも往時の面影が見られます。

 

 まず窓側一間分内側に重厚な列柱が走り、天井には精緻なデザインのシャンデリアが下げられ、英国から取り寄せたカーペットを敷いて客人を迎えていたようです。上げ下げ式の窓の上に付けられたカーテンボックスは、松と鶴に三つの笠の彫刻で三笠を表しており、細部にも凝った意匠が見られます。ここで面白いのがフロントの壁に取り付けられたキーボックス。西洋人向けということで13号室がありません。

  

 

 全部で22部屋ある客室はどれもシンプルな内装で、各部屋にはマントルピースが備えられてあります。日当たりのよい南側廊下付き当たり3ヶ所がサンルームとなっており、ロビー以外のちょっとした社交空間となっていたのでしょうね。

 

  



 「旧三笠ホテル」
  〒389-0102 長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢1339-342
  電話番号 0267-42-7072
  開館時間 AM9:00〜PM5:00
  休館日 12月28日〜1月4日