三上家住宅 (みかみけじゅうたく) 重要文化財



 幕末期の流行唄の一つに「宮津節」という民謡があります。「二度とゆくまい丹後の宮津、縞の財布が空になる、丹後の宮津でピンと出した」と謡われたその歌詞の通りに、宮津は北前船の寄港地として栄えただけでなく、色街としても繁盛した港町で、江戸の吉原を模した艶やかで煌びやかな遊郭が波止場周辺に広がり、夜な夜な船乗り達と遊女達が歓楽を共に過ごした場所でもありました。桟橋近くの新浜地区や魚屋地区がそのゴージャスな遊郭が軒を並べていたようで、今でも往時を彷彿とさせる物件が路地に見受けられていたりします。
 この花街の並びに港に向かって扇形に広がる河原地区があり、こちらも古い町家が建ち並ぶ風情ある街並みが残る地区です。この界隈で最も目を引くのが廻船問屋の三上家住宅。長く伸ばされた漆喰の塀越しに見越しの松が顔を出す粋な風情の大型の町家で、このあたりにも近世における宮津の繁栄振りがうかがえるということなのでしょう。今は市に寄贈されて内部公開中。

 

 三上家は元々は中世に山名氏に仕えていた武家の出だそうで、その山名氏の内紛により丹後に逃れ、江戸初期に町人に転身した経歴があり、当時は元結の製造・販売を行っていたようです。ということで屋号は「元結屋」。この三上家住宅はその本家四代目宇兵衛の次男勘兵衛が1776年(安永5年)に分家して建てられた邸宅で、当初の建物は1783年(天明3年)2月の大火で延焼しましたが、同年12月に早くも再建されています。父親の宇兵衛が町政にも関わった地元きっての豪商だったので、その資本力にものを言わせて速攻で建て直されたのでしょう。
 その大火の影響により何よりも防火対策に重点を置いた住宅で、外壁は白漆喰で塗り込めた大壁造に、窓・出入り口・煙出し等の全ての開口部に頑丈な土扉を設けています。その姿は堅牢で重厚であり、繊細な表情を持つことの多い江戸期の町家建築では異色であり、明治期の町家である内子の八日市や高岡の山町筋などの近代町家に近いものがあります。
 それと京都の町家が正面が狭く奥行きの深い鰻の寝床が多いのに比べて、この三上家は表通り沿いに幅広い敷地を持つことにも特徴があり、増築を繰り返していることから、おそらく敷地をその度に購入して広げていったのでしょう。その新しく広げた敷地には漆喰の蔵を他家との境界部に建てて、延焼を防ぐという効果も狙っていたようです。
 最初に建てられた主屋を中心に、新座敷・庭座敷・表門・酒造蔵・釜場・道具蔵・什器蔵が約400坪とそう広くない敷地に巧妙に組み合わされて配置されており、いずれも国の重要文化財の指定を受けています。

  

 中心となる主屋は、屋根が入母屋造の桟瓦葺で、大きさは桁行18mの奥行11.1m。平屋建てですが一部二階があります。入口が妻入りなのですが、内部がその入り口を動線として左右に分かれており、右手に土間が、左手に居室部が並ぶ、妻入り縦割りの摂丹型の配置。摂津・丹後・丹波地方の農家でよく見られる型式ですが、町家では少なく、大阪堺市にある山口家住宅が似たタイプの町家です。
 「ニワ」と呼ばれる土間は天井が高く吹きぬけており、松材を使った太い柱や梁を組み合わせた豪壮な梁組が見られ、その上部の小屋組みが屋根裏を支えて、煙出しから外光が土間全体に広がります。この煙出しにも防火扉があり、下からは滑車を使って開閉されていたようです。土間は漆喰のタタキによる美しい仕上げの造り。

 

 

 屋根裏と言えば、妻側の軒が禅宗寺院で多くみられる扇垂木が採用されている点で、外部もその垂木に沿って漆喰が波打って塗り回されています。

 

 この三上家は廻船問屋や糸問屋の他にも酒造業も兼ねていたようで、北前船で儲けたお金を酒造りに投資し経営の多角化を図ったようです。目論見は見事成功し、廻船業が廃れた後も酒造業者として生き残り、1975年(昭和50年)まで「都小町」「大天橋」の銘柄で生産販売していました。当主の先見の明があったのでしょう。
 1830年(文政13年)に建造された「釜場」「酒造蔵」を始めとして、「ニワ」での酒米の洗い場や麹室等で酒造りの仕組みが判り易く紹介されています。

 

 土間に沿った居室部は入り口側から、「ミセ」「ゲンカン」「ナカノマ」「オクザシキ」が直列に並び、「オクザシキ」以外は質実剛健のとてもシンプルな部屋が並びます。やはりここでも防火対策用に、分厚い土壁や防火扉が部屋を囲んで固めています。

 

 ここまでが最初に建造された主屋の部分で、この主屋から通り沿いに東へと増築を重ねていきます。1820年(文政3年)に建造された新座敷棟は、8畳間の「シンザシキ」と7畳半の商売用の「ミセオク」、それに6畳の「ヨリツキ」による構成で、特に「シンザシキ」は大坂土で上塗りされた赤い壁と、杉の磨丸太の長押が嵌められた数寄屋風書院造の座敷となり、店舗空間に隣接した接客空間となっています。戸の向こうには坪庭も広がるので、京都の町家の構成に倣ったものなのかもしれません。
 違い棚の上の戸袋には、文人画でしょうかそれぞれ雪景色を題材とする絵が描かれています。

 

 

 さらにこの新座敷棟の東側には、1837年(天保8年)に庭座敷棟が増築されています。この庭座敷棟の建った翌年に幕府巡見使の本陣に指定されたそうで、役人を迎える為の正統的な設備が必要となった為に、表門として薬医門と式台が急遽増築されています。羽振りの良さがどこからか伝わって権力者に睨まれたからなんでしょうかね?

 

 その庭座敷棟は、それぞれ8畳間の「ニワザシキ」「ツギノマ」と2畳の仏間による構成で、その周囲を池を中心とする庭園が取り囲みます。ここは先に出来た「シンザシキ」とは違って店舗空間からは完全に分けられており、より充実した接客空間を求めたのか、又はその財力を使って贅沢な居住空間を求めたかどちらかなのでしょう。ともかくその庭園も含めて江戸期の民家とは思えないほどのグレードの高い意匠で構成されており、北山杉の磨丸太による床柱・黒柿の床框・神代杉の落掛・欅の玉杢による違い棚・金砂子を撒いた障壁など、銘木や豪華な調度品を散りばめて上質の空間が造られています。

 

 

 格調高い書院造の「ニワザシキ」には、「シンザシキ」同様に違い棚の上の戸袋に絵が描かれており、四枚の戸にそれぞれ四季を織り込んだ和歌の色紙が貼られています。

  

 「ツギノマ」の隣には仏間があり、大きく豪華な仏壇と、凝った細工の透かし彫りが欄間に見られます。

 

 座敷の外に広がる庭園は、座敷に座って眺めを楽しむ池泉観賞式で、池の対岸に反りの緩い石橋を渡し、その先に築山を盛り、天辺に周囲を睥睨するような高い石をドンと置いた構成。狭い場所に池を大きくとって複雑に湾曲させているせいか奥行きが深く感じられ、大小様々な種類の石を刈込の中に散らし、石橋や石灯籠でその風景を締めています。京都府の名勝指定。
 ちなみに池は亀だらけです。

 

  

 この庭園の一角には茶室もあり、庭座敷棟からは渡り廊下で繋がります。茶室は3畳台目に台目床が付く構成で、床柱にはカリンの木が使われています。隣には湯殿も付いており、過去4人しか使用していないとか。

 

  

 この住宅で一番凝った意匠を見せているのが釘隠し。各部屋ごとに全く違う紋様の釘隠しが打たれており、目立たない所までに金を掛けたこの家の豪商ぶりがうかがえます。

 

 



 「旧三上家住宅」
   〒626-0014 京都府宮津市字河原1850
   電話番号 0772-22-7529
   開館時間 AM9:00〜PM5:00
   休館日 12月29日〜1月3日