京都御所 (きょうとごしょ)



 「東京の中心は空虚である」と述べたのはロラン・バルトですが、元首都の京都にも中心にはサンクチュアリの京都御所があります。いわずと知れた元皇居である京都御所は、1869年(明治2年)の東京遷都までの約540年間、日本の歴史・文化の中枢として君臨した場所でした。元々御所は平安京が遷都された当初は今の二条駅北あたりに位置していましたが、幾度も焼失の憂き目に合いその度に仮御所を点々とする次第、最終的に南北朝時代の1331年(元弘元年)に今ある地に落着き、ようやく皇室の御住まいとして安住されたわけです。がその後も何度も焼失を繰り返し、今に見る姿は幕末の1855年(安政2年)に完成したもの。敷地面積は11万u程あり、東西250m南北450mの方形の平面を持ち、その周囲を築地塀と白砂で覆った厳粛性の高い場所です。この周囲に公家の御屋敷が並んでいましたが、東京遷都共に全て引越し、今は京都御苑として国民公園となり下々にも公開中。ちなみにこの白砂の参道はまことに歩きにくく、特に自転車ではなおさらで、御所南の築地塀から5m程の場所に砂利の禿た帯状のルートがあり、ここを東西から始終ママチャリが疾走して行きます。正門の建礼門の向こうには、紫宸殿の巨大な檜皮葺の屋根が覗かせています。

 

 安政期に再建された建物群は、平安期の王朝様式を再現した復古建築によるもので、紫宸殿・清涼殿・小御所・御常御殿等の寝殿造りの建物が整然と配置された、王朝文化の残照とも呼ぶべきような唯一のエリア。今でも公家が烏帽子を被って蹴鞠に興じていても何の違和感も無いタイムパッケージされた場所です。この復古様式は寛政期の1790年の再建事業に因るところが大きく、当時の普請にあたって時代考証に赴いた故実学者の裏松固禅の徹底的な検証により、御所の中核となる紫宸殿と清涼殿に後宮の飛香舎を平安期の様式に忠実に復元し、ここに王朝建築の再興が図られたというわけです。この時の建造物もその後焼失しましたが、安政期の再建は又それを忠実に復元したものです。
 これだけ広い敷地ですから当然門も多いわけで、東西南北あらゆる方向に全部で6つ。何故か西に3つもあります。正門にあたる建礼門は南に位置し、この門の奥正面に紫宸殿があります。天皇・皇后・国賓以外は通行不可の、通常時は開かずの門。西側の一番南にある宜秋門は公家用の門ですが、春秋の一般公開の際にはここが出入り口になります。それぞれ切妻屋根の檜皮葺による優美な四脚門で、凝った彫刻で装飾性を高めた意匠です。宜秋門の北にある清所門は通用門で、こちらは通常参観の出入り口にもなり、瓦葺屋根のシンプルな造りです。

 

 その清所門を潜って参観コースを進み、宜秋門を少し過ぎた南寄りに御車寄があります。正式参拝の際に使われる玄関で、この場合の車とは当然牛車。

 

 ここで昇殿した参内した者は、この御車寄に連なる書院造りの諸大夫の間で暫し時を待ちます。いわゆる控えの間ですが、その身分に応じて部屋が分けられており、最も格式の高い「公卿の間」、次いで諸侯・所司代用の「殿上人の間」、その他用の「諸大夫の間」と3部屋並ぶ構成。それぞれ襖絵が描かれており、「公卿の間」は岸岱による虎の絵、「殿上人の間」は狩野永岳による鶴の絵、そして「諸大夫の間」は原在照による桜の絵が嵌められています。何れも幕末期の京都画壇で活躍していた画家によるもので、その絵に因んでそれぞれ「虎の間」「鶴の間」「桜の間」とも呼ばれています。

 

 この諸大夫の間のすぐ南には、再び御車寄が登場。こちらは新御車寄で、大正天皇の即位の礼の際に造られたもの。さすがに牛車ではなく自動車用で、近代建築らしく扉には窓ガラスが入っています。

 

 これらの内参用の玄関・待合施設群の東側に、御所の中心である紫宸殿や清涼殿が並びます。紫宸殿のある一帯は聖域という役割を持つせいか閉じられた空間となっており、紫宸殿の東西から白壁による回廊が両腕のように前に伸ばされ、丁度紫宸殿の正面で承明門という十二脚の門で合わさる構成で、その回廊と紫宸殿に囲まれた前庭は白砂の眩い儀式用の広い南庭となっています。承明門は建礼門の奥にあたる門で、やはり建礼門同様にVIP用の門。高さ6m桁行16mの大型の門です。この門や回廊は丹塗りの柱に瓦葺という中国風なのですが、内部の紫宸殿や清涼殿は和風で建てられており、このあたり日本に導入された宮廷文化の変遷や独自性が見られるところです。

 

 

 承明門の正面に巨大な山塊のような紫宸殿の姿が見えています。紫宸殿は御所の正殿であり、即位の礼や朝賀の大礼等の重要な儀式を行う場。大正天皇や昭和天皇もここで即位の礼を行いました。大きさは桁行37m奥行26.3mで、高さは20.5mの木造平屋建て。屋根が入母屋造りの檜皮葺で、周囲に高欄を付けた簀子を取り回してあります。いわゆる王朝期の宮廷住宅である寝殿造りによるもので、外壁は四方に胡粉の白塗り地板に黒漆を塗った格子造りの蔀戸で構成されており、開閉は内側に引き上げて使う古式に法った造り。このあたり江戸初期に移築された紫宸殿を改造して仏堂とした仁和寺の金堂を参考にしたそうで、確かに良く似ています。

 

 

 が全面的に寝殿造りを踏襲しきっているようでは無いようで、まず屋根の高さがあまりにも高すぎてしまい、その大きく高い屋根を支える為にか軒下に組物と呼ばれる寺社建築の構造物が採用されており、また柱の下には禅宗様の礎盤を入れるなど、かなり不思議な構成とはなっています。王朝復古を志したものの、その様式や技術が今ひとつ判明しなかったようで、このような寺社建築の技法で誤魔化したのかもしれません。

 

 南庭には左近の桜、右近の橘が植えられています。紫宸殿から見て左右なので、東に左近の桜、西に右近の橘となります。

 

  紫宸殿の中では東南隅に「陣の座」と呼ばれるベランダ状の板敷きの間があります。最初は天皇の警護の詰所だったのですが、その内に利便性が良いからか皇室の重要な政務を会議する「陣の儀」が行われるようになり、このような名称となった模様。確かに前方の南庭の白砂の照り返しを受けて奥のほうまで明るく、背面・西面に板戸で開放できる為に風通しもよく、ちょっと転寝をしてみたくなる居心地の良さそうな空間ではあります。この「陣の座」の反対側の北西隅には、隣の清涼殿との渡り廊下である長橋が架けられてあります。高欄の無いシンプルな板廊下ですが、八橋を思わせるそのフォルムはやはり王朝風の趣があります。この長橋は取り外し可能。

 

 その長橋で連なる清涼殿は、天皇の日常の住居であった御殿ですが、実際には御常御殿が建造されているので、安政期に再建されたこの建物は形式上の、紫宸殿と共に儀式用に建てられたものです。小振りの紫宸殿といったところで、桁行九間奥行四間の大きさに、屋根が入母家造りの檜皮葺による木造平屋建て。紫宸殿よりも古式の手法を良く伝えているそうで、蔀戸や高欄に簀子を取り回すパターンは同じですが紫宸殿に比べて床が低く、大部屋一つの紫宸殿に対して幾つものパーテーションに分けてその用途によって意匠にバリエーションを持たせており、紫宸殿の威圧的で男性的な印象に対して、女性的で優しい印象があります。

 

 南向きの紫宸殿に対してこの清涼殿は東向きに建てられており、その東側に面した中央に「昼御座」と呼ばれる部屋があります。天皇の日中の座所だった場所で、ちなみにこの部屋の北側に八畳程の広さの寝室である「夜御座」もあり。この「昼御座」は夏の蒸し暑い京を過ごす為か風通しの良い空間で、中央には白絹の帳を下ろした御帳台が置かれています。さすがに京の冬は底冷えするので、部屋の東南隅に石灰檀と呼ばれる漆喰の檀があり、そこに塵壺を設けて炉として暖をとっていたようです。また廂の下には「荒海障子」「昆明池障子」と呼ばれる障子があり、これも平安期の様式を踏襲したもの。「枕草子」にも出てくるそうです。

 

 清涼殿の名の通りに夏の蒸し暑さをしのぐ為に、クーラー代わりか建物北側20cm程に滝口を設け、そこから建物前面を横切るように水路が走っています。その水路の前には北に「呉竹」、南に「漢竹」があり、紫宸殿の左近の桜・右近の橘と同じ趣向のもの。これも平安朝の意匠だそうです。

  

 紫宸殿・清涼殿のある一画から北に向かって御殿が連なる構成ですが、これらの御殿群は平安期には存在しなかった建物で、鎌倉以降に王朝文化が衰退し武家社会に入ってから随時建造されていった建物です。というわけであまり雅な趣はありません。まず紫宸殿の北東、清涼殿の東にあるのが小御所で、鎌倉期に源頼朝の鎌倉の邸宅内に建てられたものを持ち込んだのが始まりとなり、室町期に今の位置に配置されるようになったとか。外観は屋根が入母家造りの檜皮葺による寝殿造なのですが、内部は武家モードらしく書院造の建物。ここで大政奉還が執り行われましたが、戦後に花火で焼失し今あるのは1958年(昭和33年)に再建されたものです。

 

 この小御所の北にあるのが御学問所で、これも江戸初期に徳川家康により建造された御殿。いわゆる幕府側の皇室囲い込み作戦で、「禁中諸法度」により天皇の行動を監視規制する意味から、学問に勤しんで政治には口出すなという意味づけで建造されたもの。小御所に比べてさらに書院造の趣が強い意匠です。この御学問所と小御所との間に白砂を敷き詰めた蹴鞠の庭があります。

 

 小御所と御学問所の東側は、御池庭と呼ばれる池泉回遊式の庭園があり、栗石敷き詰めた洲浜に優美な反りの欅橋も設えた、舟遊びも楽しめるいかにも宮廷風の広々とした明るい造り。今は木立が遮っていますが、かつては東山や比叡山も望める借景式だった模様。

 

 

 ここまでがフォーマルな領域で、白壁塀から北は皇室のプライベートスペース。天皇が日常生活を送る御常御殿、東宮の住居である御花御殿、そして少し離れて一番北に後宮の皇后宮常御殿と若宮姫宮御殿に飛香舎が連なります。御常御殿は元々清涼殿が天皇の住居だったものの色々と手狭になり、桃山期に新設されたもので、屋根が入母屋造りの檜皮葺による書院造の木造平屋建て。内部は15室もある御所内最大の建物です。(紫宸殿よりも大きい)

 

  

 御常御殿の東側にも御内庭と呼ばれる庭園が広がります。御池庭の空間の大きく明朗な造りと異なり、プライベートということか小暗く静寂とした趣で、池ではなく緩やかに湾曲する小川がゆったりと流れる構成。下流は御池庭の池に注ぎ込みます。ここで曲水の宴でも催すのでしょうか?北側に「迎春」「御花御殿」「聴雪」といった御殿・茶室が続きますが、ここから先は非公開。

 

 

 



 「京都御所」
   〒602-0081 京都府京都市上京区京都御苑
   電話番号 宮内庁京都事務所参観係 075-211-1215
   参観は事前予約 参観希望日の3ヶ月前の月の1日から往復はがき・宮内庁webサイトで予約し抽選
   すぐ締め切られる 18歳以上
   参観休止日 土・日曜日 国民の祝日 12月28日〜翌年1月4日
   但し第3土曜日と、4・5・10・11月の土曜日は参観可
   毎年春秋に一般公開あり