京都府庁本館 (きょうとふちょうほんかん) 重要文化財



 京都は空襲や大きな地震がなかった為に古建築と共に近代建築が多い都市で、その内容も日銀京都支店や同志社大学校舎群に、京都ハリストス正教会や梅小路機関車庫など、行政・商業・教育・宗教・交通・商業・住宅と多岐にわたって幅広いジャンルに質の高い建築物が残こされており、国重文に指定された建築物も多い近代建築の宝庫でもあります。こと中心部にいたっては幕末の元治の大火(蛤御門の変)により焼け野原になって古建築が焼失してしまい、かえって近代建築のほうがとても充実している逆転現象が起きていたりもします。古社寺は山沿いの郊外の方が多かったりしますしね。
 その蛤御門に程近い下立売通り沿いに京都府庁があり、周囲を府警本部や日赤病院が建ち並ぶ官庁街になっているのですが、元々ここは幕末に京都守護職の上屋敷が置かれていた場所で、維新後に東京遷都で不要になったあとに府庁が設置されたのがその経緯。秀吉の聚楽第もこの御近所で、時の権力者達がこぞって居座るのはそれだけ地勢的に有効な場所なのでしょう。京都の臍(へそ)みたいな地点なのかもしれません。
 で、新たな権力となった明治新政府が、千年の歴史を持つ古都に近代化を象徴する楔をガン!打ち込んだのが、正面にひときわ大きく鎮座する後期ルネッサンス様式の洋風建築である旧本館。今でも現役の庁舎として使われています。

 

 もっとも維新後すぐに府庁が出来たのではなく、当初は1873年(明治6年)に京都府立中学校が開校しており、府庁自体は当時は二条城に間借りしていました。その後1885年(明治18年)に当地に引っ越すことになり、中学校校舎をそのまま踏襲して業務に当たっていましたが、さすがに手狭になったのと大日本帝国誕生の頃ですからその象徴を誇示する為に新庁舎を造ることになり、1904年(明治37年)に竣工しています。
 設計にあったたのは京都府の建築技師だった松室重光で、竣工当時は若干31歳の時。東大で建築を学んだ秀才は故郷京都でその辣腕を振い、同時期に近代武道場の武徳殿(国重文)や京都ハリストス正教会と全くタイプの異なる建築物も手掛けており、いずれもその後の同タイプの建築物のプロトタイプとなる優れた作品ばかり並びます。この府庁旧本館も県庁舎建築の御手本として戦前には全国に紹介されており、国の重要文化財にも指定されています。
 外観はレンガ造り二階建てで、屋根は天然スレート葺き。外壁は石張りの予定でしたが日露戦争の出費により予算削減でモルタル塗りに改められています。正面にコリント式オーダーで支えた車寄せとバルコニーを乗せ、左右両翼に対照的に張り出したフランスルネサンス様式によるもので、正面のペディメントや壁面には豊かな装飾が散りばめられています。

 

  

 平面構成はロの字型となっており、正面南側の玄関と反対側には議事堂が張り出しています。中庭は植治こと七代目小川治兵衛が作庭しており、円山公園の有名な初代枝垂桜の孫木も植えられてあります。この桜が見頃になる4月上旬に一般公開有り。

 

 今でも現役の庁舎として使われているので公開されているのは一部のみですが、特に玄関奥の吹き抜けの階段部は見所の一つで、白川の花崗岩を用いた白を基調とする明るい空間に、大理石にアカンサスの華麗な彫刻を施した手摺が広がる姿は、壮麗かつ重厚なネオバロック様式のような趣があります。

  

  

 見学できる部屋は旧知事室と正庁の二つ。知事室は二階の東南隅にある角部屋で、東側の窓には比叡山や大文字山が見渡せる絶好のロケーション。歴代の知事もここで五山送り火を愉しんだのでしょう。
 ハーフティンバーの格天井にその下の重厚な廻り縁や、大理石の暖炉に鏡と扉の上の装飾など調度品にいたるまで色々と凝った細工が施されています。

 

 

 階段を上がってすぐ正面になる部屋が正庁。重要な会議や式典を行う場で、その性格上豪華極まりない意匠となるのすが、ここでは京都ということでか天上の中央部が上に一段上がった折上小組格天井となっており、まるで日本建築の仏堂のような構成となっています。その中心にはやはりアカンサスのレリーフがあり、和洋折衷の意匠。
 ここは貸出施設になっているようで、コンサート会場や結婚式場としても使えるようです。

 

 



 「京都府庁」
   〒602-8570 京都府上京区下立売通新町西入藪ノ内町
   電話番号 075-411-5000
   開館時間 旧知事室・正庁 AM10:00〜PM5:00
   休館日 土・日・祝日