旧黒澤家住宅 (きゅうくろさわけじゅうたく) 重要文化財



 秋田市は久保田藩主佐竹氏のお膝元として発展した城下町。徳川家に関ヶ原絡みで水戸藩からお国替えで東北に飛ばされた佐竹氏は、美女をかき集めて連れって行ったので秋田は美人が多く水戸は?とよくネタになるようですが、冬になると陽が差さないので色白で、DNAを調査すると流れ着いたロシア人の血を引く人が多いのがその真相だとか。その佐竹氏、それまであった秋田氏の土崎の湊城を破壊し、より内奥の窪田の神明山に築城したのが今は千秋公園になっている久保田城で、城郭の周囲に整然とした町並みを構築して20万石の城下町が形成されました。市中央を流れる旭川を挟んで城のある東側が武家地、西側を町人地とし(豪商の金子家も西側)、武家地も南と西の外縁に足軽町や寺町を配して防御にあたらせました。内郭に藩主や側近等の「侍屋敷」地区が作られ、その南側の三の郭・四の郭には上・中級武士の住む「侍町」が作られました。これらの武家住宅は殆どが失われてしまい、三の郭に遺されていた「黒澤家」が唯一の遺構でしたが、バブル真っ盛りに当主が亡くなり相続税がシャレにならない額に昇ることから物納され、今は市郊外の一つ森公園内に移築され公開されています。

 

 黒澤家は秋田中部の平鹿・雄勝地方の戦国大名小野寺家の家臣で、主人が関ヶ原後失脚により流刑となり、佐竹氏入城後に家臣として幕末まで仕えました。この久保田藩、屋敷替えが盛んな藩だったようで、黒澤家も200年の間に3回の屋敷替えを受けたとかで、三の郭の東根小屋町(今の中通り三丁目)にあったこの家が最後のもの。どうやら新しく建て替えたものではないようで、元からあった建物を改築して暮らしていた模様。建物の構成は長屋門の奥に主屋・土蔵・米蔵・木小屋・氏神堂が整然と立ち並ぶもので、国の重要文化財指定。主屋は書院・小座・台所が雁行型に結合した平屋建ての建物で、屋根は柿葺きの切妻造り。格式を示す為か、畳3畳が付いた式台が前に張り出しています。

 

 主屋の書院は表門と台所と共にこの家で最も古い箇所で、黒澤家転居前からの18世紀前半の建造と見られています。庭側は12畳の書院造の座敷と8畳の次の間が並び、さらに式台が連なる構成で接客用の空間でした。この座敷は床の間が装飾の少ない非常にシンプルな意匠で、木割の細い端正な造りで質素でありながら品の良い空間です。

 

 この座敷のすぐ裏は7畳の仏間となり、炉も切られていて居間としても使われていました。ここの部屋でユニークなのは天井が異様に低いことで、実はここに隠し部屋があり、いざという時は梯子を降ろして妻子を隠す為とか。

 

 書院から雁行型で小座が繋がり、ここは黒澤家転居後の1835年(天保6年)に増築された部屋。外観は屋根が柿葺きの切妻造りで、内部は8畳の茶室です。
 小座の奥は台所棟で、ここも書院同様に最も建造の古い場所ですが、背面に土蔵を新築した時に改造されています。風呂はかぶり湯の為に浴槽は無く排水溝が中央にあるだけ。

 

 

 土蔵は台所と繋がっていて、1851年(嘉永6年)に同じ三の郭内の佐藤家から購入し移築したもの。その時に台所を改造した模様です。台所の奥には米蔵があり、1830年(天保元年)建造の高床式のもの。

 

 この黒澤家は移築前は街中心部にあり、当時は敷地内は幾本もの大木が生い茂り、鬱蒼とした森の様相で典型的な屋敷林でした。果実を多く植えていたそうで、季節ごとに梅・花梨・栗などがたわわに実り、紅葉の時期も美しい景色が広がっていたそうでした。今もしもそのままの姿で保存されていたとしたら、市の大きな観光資源になっていたでしょうが、官僚にはつまらない物にしか見えなかったのでしょうね。

 



 「旧黒澤家住宅」
   〒010-0034 秋田県秋田市楢山字石塚谷地297番地99
   電話番号 018-831-0285
   開館時間 AM9:30〜PM4:30
   休館日 12月29日〜1月3日