万昌院功運寺 (ばんしょういんこううんじ)



 中野区の上高田一丁目と四丁目は、別名寺町と呼ばれるほどにごく狭い領域に寺が密集して建てられており、その数は15頭ほど。これは明治末期の東京都市部の区画整理により四谷周辺などの寺が引っ越してきたことによるもので、同時期に近くに落合の火葬場や江古田の東京療養所(法定伝染病の隔離施設)、陸軍中野学校、豊多摩監獄(旧中野刑務所)が、山手通り(環状6号線)の外部に次々と造成されていきました。山手通りは都市の肥大化により、中心部におけなくなった施設との結界のようにも見えます。(東京の火葬場・精神病院・刑務所・療養所は山手通りより外部にある。)
 この万昌院功運寺も元々は千代田区にあったお寺、大正期にこの地に引っ越してきました。最初は別々の2つの寺だったそうで、久宝山万昌院と竜谷山功運寺とに分かれていました。昭和23年(1948年)に合併したそうです。。なので境内は中々に広く山門も本堂も御立派。

 

 当然墓地も広く隣もお寺でしかも墓地なので、見渡す限りお墓だらけです。この墓地に眠る有名人といえば、忠臣蔵で悪役にされちゃった吉良上野介義央。
 正面に本人のお墓、右に供養塔が立ち、左に討死にした家臣達の墓誌が刻まれています。この墓誌によると討死にした家臣は35名、上は60歳から若いのは21歳まで。清水一学は25歳だったそうです。今でも墓前には花が絶えません。
 時代劇では悪役番付の横綱クラスですが、地元愛知県吉良町では善政を執り行った名君として慕われていて、町のHPでも盛んに喧伝しています。本当のところは誰にもわかりませんが、みんな誰かを殴りたいんでしょう。

 

 境内には放浪の作家林芙美子のお墓もあります。下関-尾道-東京と続く放浪の旅もここで終焉を告げ、今は深い深い眠りの中。墓碑銘は葬儀委員長だった川端康成の筆によるもの。



 この上高田一帯は元々は長閑な田園地帯で、童謡「たき火」の発祥地としても知られています。農家の垣根が往時をしのばせてくれます。

 



 「万昌院功運寺」
   
〒164-0002 東京都中野区上高田4-14-1
   電話番号 03-3387-6321