金剛輪寺 (こんごうりんじ) 国宝



 近江の国の琵琶湖近辺は、天台密教の名刹が広く点在する地域で、湖畔や山裾に美しい伽藍を構える寺院が多く見られます。鈴鹿山地の山懐に抱かれた湖東三山と呼びなわされる寺院群も、それぞれが広い寺域に歴史ある仏堂や塔等の建造物と瀟洒な庭園を構えており、関西では屈指の紅葉の名所としても知られています。一番北にある西明寺から国道307号線を南下して3km程の森の中にある金剛輪寺は、奈良期の741年(天平13年)に聖武天皇が勅願し行基が開山し、平安期の嘉祥年間に延暦寺の慈覚大師が入山して天台宗へ改宗した由来を持つお寺。中世には大いに繁栄したものの西明寺同様に信長の焼き討ちに合って諸堂をことごとく焼失し、江戸期に天海僧正により復興したのに今度は明治初期の廃仏毀釈により再び縮小と、栄枯盛衰の時代に翻弄されまくった場所のようです。嘗ては山内に12もの塔頭があったそうですが今は本坊の明寿院のみ。山門を潜って延々と続く長い石段の両側は杉の大木が鬱蒼と茂り、風車を供えられた地蔵様が侘しさを募らせます。

 

 西明寺もそうですが、この湖東三山はいずれも山門と仏堂との距離が遠く、この金剛輪寺も山門から300m程の山道が続きます。しかも結構傾斜があり、西明寺よりハードな行程を強いられます。ちなみに一番南の百済寺が門と仏堂が一番遠距離。やっとの思いで石段を登リきると、大きなわらじを掛けた門が出迎えてくれます。西明寺同様に二天像を安置していることから二天門と呼ばれる門で、今は上層は失われていますが嘗ては二重の楼門だった模様。室町後期の建造で、国の重要文化財指定。

 

 その二天門の正面に国宝の本堂があります。西明寺に比べて門との距離が近く、その全貌は門からでは把握出来ないほど。信長の焼き討ちに罹災しなかった数少ない遺構で、建造は鎌倉中期の1288年(弘安11年)とあるのですが、様式からして室町初期の建立か又は大改造があったのではいかと考えられています。大きさは桁行7間奥行7間で屋根が入母屋造りの檜皮葺。外観では正面が蔀戸を嵌め、側面前3間に板扉を付けた西明寺と良く似た構成ですが、この時代に多い向拝が付かない点に特徴があります。大仏様・禅宗様・折衷様と大陸の様式が強い時代に、純和様で建造された美しい仏堂の1つで、「大悲閣」とも呼ばれています。

 

 

 西明寺本堂が繊細で優美な女性的な仏堂だとすれば、この金剛輪寺本堂は骨太で逞しい男性的な仏堂と言え、その特徴は内部によく現れています。外陣に野太く力強い柱を高くぶっ立てて、そこに自然に曲がりくねった原始的な黒太い虹梁をかませて、壮大な空間を作り上げています。西明寺の精緻な折上小組格天井とは真逆の内容で、木割りは太く蟇股も無いシンプルな意匠。内陣に禅宗様の拳鼻があり、一部折衷様の様式から、室町期の建立か改造有りとの判断材料になっている模様です。内陣には阿弥陀如来坐像・不動明王立像・毘沙門天立像・四天王像など10数点に及ぶ仏像が密集して並び、何れも国の重要文化財に指定された仏像の宝庫。

 

 本堂左手の一際高い丘の上に三重塔が建っています。建立が1246年(寛元4年)とあり本堂よりも古いのですが、実際には本堂と同時期ではないかと考えられています。この塔も二天門同様に上層の3重が失われており、初重と2重の軸部のみが残っていたもので、1978年(昭和53年)に復元されました。西明寺の三重塔との類似性が強いことから、西明寺のを元に建立されたのはないかとも考察されています。「待龍塔」とも呼ばれる塔で、国の重要文化財指定。

 

 山門に程近い所に本坊である明寿院があります。書院の南・東・北を三方囲むように庭園があり、それぞれ桃山・江戸初期・江戸中期と作庭された時期が違う池泉回遊鑑賞式のもので、国の名勝に指定されています。一番手前の南庭は桃山期のもので、石組みの滝と苔むした石橋が印象的な庭。石楠花が多いことから「石楠花の庭」とも呼ばれています。
 その次の東庭は江戸初期のもので、この庭は書院の主庭。書院の縁側に座って眺望も楽しめます。水雲閣と名付けらた茶室もあり、睡蓮の多い池に石組や枯滝を配した明るく華やかな典雅な庭です。
 一番奥の北庭は江戸中期の築庭で、木立の中の苔むした池に宝船に見立てた石が中心のちょっと小暗い庭。このあたりは紅葉が最も美しい場所で、「血染めのもみじ」と呼ばれる程に鮮やかな姿を見せるそうです。

 

 



 「金剛輪寺」
   〒529-1202 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874
   電話番号 0749-37-3211
   FAX番号 0749-37-2644
   拝観時間 AM8:00〜PM5:00
   拝観休止日 年中無休