喜光寺 (きこうじ) 重要文化財



 近鉄の奈良線と京都線がクロスする大和西大寺駅から南へ1Km程の場所にあるのが菅原の里。菅原道真がこの界隈で産まれたのではないか?なんて伝承のある奈良市郊外の集落で、菅原天満宮という神社もあったりします。奈良時代には貴族が御屋敷を構えた高級住宅地だったそうで、御近所には平城宮もあり、薬師寺や唐招提寺にも程近く、天平の香り漂うそんな土地なのですが、集落を貫くように奈良大阪間の物流の大動脈である阪奈国道が走っており、大型トラックやトレーラーが間断なく行き交って黒煙と騒音と振動を撒き散らしているので、天平期を喚起させる様なロマンティックな雰囲気は微塵にもありません。ただの街道沿いの田舎臭い集落です。
 その埃まみれのささくれ立った阪奈国道沿いの交差点側に、巨大な山門と巨大な仏堂が並ぶ周囲とミスマッチな一角があります。山門が真新しいうえに境内は木立も少なく更地のようになっているので、比較的新しいお寺かと思いきやさにあらず、喜光寺(きこうじ)という天平期にまで遡る古刹で、菅原寺とも呼ばれる由緒正しき寺院です。ちなみにこの山門は南大門で、2010年に復元されたもの。

 

 この喜光寺は、天平期の721年(養老5年)に行基が創建した寺院で、鎌倉期に西大寺系の律宗として再興されましたが、明治末期に薬師寺の別格本山として法相宗に改宗しています。行基が庶民層向けに開基した49院の一つで5番目に古いものらしく、当初は阿弥陀堂が建てられていたようですが室町中期の1499年(明応8年)に焼失し、現在の本堂は1544年(天文13年)に再建されたもの。この本堂以外は16世紀に戦乱があって全て焼失しており、再建された南大門の奥に本堂が建つのみです。
 本堂は屋根が寄棟造りの本瓦葺で裳階が付き、大きさは桁行三間に奥行二間。室町期の建物ですが東大寺大仏殿や唐招提寺金堂に似た復古調の様式で、行基に因んで「試みの大仏殿」とも呼ばれています。この建物を基に東大寺大仏殿を建立したという謂れがあり、大きさは約10分の1とか。大仏殿と興福寺東金堂がミックスしたような姿です。国重要文化財指定。

 

 外観では唐招提寺金堂と同様に正面一間通りを吹き放しにして柱を並べ、身舎の柱上は四手先の組物で軒を支える和様の工法が採用されていますが、この四手先は多宝塔に採用されることが多く、仏堂に採用されている例としては東寺金堂がある程度です。東寺金堂も桃山期の復古建築による大型仏堂であることから、深く大きな軒を支えるには多宝塔の様式が転用されているのかもしれません。和様による装飾性が希薄な、おおらかでたおやかな表情のマスクです。



 

  

 内部は床が土間となり、柱を立てずに天井近くの大虹梁を二本渡して、建ちの高い空間を支えています。ここでは中央の大虹梁に三方向から虹梁が架けられ、柱間には貫を三重に入れ、裳階の繋虹梁の木鼻に装飾性の強い紋様を入れるなど大仏様の工法が採用されており、外観の和様とは異なる構成です。広い空間を造り出す為に大仏様が採用されているのでしょうが、西大寺律宗派は和様に大仏様を取り入れた新和様の仏堂を次々と手掛けた工匠集団でもあったので、その影響が見られるのではないのでしょうか。御近所ですし。
 虹梁の下に東西南北二つずつ計八個の連子窓が開いており、特に西側の窓は西方浄土の御来光とかで、夕暮れ時には本尊の阿弥陀如来坐像(平安期・国重文)に射し込むとか。聖武天皇が本尊から放たれた不思議な光明から喜光寺と命名された逸話があるそうで、この西日が要因ですか?

  



 「喜光寺」
   〒631-0842 奈良県奈良市菅原町508
   電話番号 0742-45-4630
   拝観時間 AM9:00〜PM4:30 年中無休