桂離宮 (かつらりきゅう)



 桂離宮と言えば、ブルーノ・タウト曰く「永遠なるもの」「涙が自ずから眼に溢れる」建築として賛美され語り継がれてきた日本建築の至宝、数奇屋風建築の最高峰とも呼ばれる建物群ですが、その一方で大正期までは殆ど顧みられず、昭和初期になって異邦人のタウトによって発見され、いや実はそのタウトの発見こそがギミックなものだとする井上章一氏の「つくられた桂離宮神話」のようなアンチ学派も登場するなど、その時代によって評価が二転三転する不思議な建物でもあったりします。おそらく創設されてから完成するまでに40年以上の月日がかかっており、増改築を繰り返したことから各時期の意匠が融合されており、その重層性と多様性が謎めいたミステリアス性を醸し出し、光の当て方で違う答えが出てきてしまう要因になっているのかもしれません(優れた建造物ほど謎が多い)。
 ただ1ついえることは、建造された時期が江戸初期にあたることから、桃山期の武家社会による権威を広くひけらかした勇壮な建造物群(姫路城・二条城・瑞巌寺・方広寺大仏殿等)に対する公家社会側のアンチテーゼであり、同時期にこの桂離宮を初めとして修学院離宮・曼殊院・円通寺(旧幡枝御所)等の京都市郊外に、田園趣味の瀟洒な住宅建築が次々に造営されていったことも、徳川幕府に対する強い意識のあらわれなのかも知れません。
 この離宮は御陽成天皇の弟である八条宮初代智仁親王が、別荘として1615年(元和元年)頃に桂川の畔に造営したことがそのスタートで、その後子息の二代智忠親王の時期(1641年〜1662年)に大きく増改築を進め、さらに養子の三代穏仁親王が完成させた、実に三世代およそ40年以上もの長い年月にかけて造営が進められた悠長な時代の別邸建築。悠長だったわりには同時期の修学院離宮の雄大なスケールとは真逆の箱庭的な庭園で、閉じられた世界に一つ一つ丁寧に作り込んでいくカレイドスコープのような世界。修学院離宮のようにお百姓さんが庭園の中の田畑まで入り込んで野良仕事を勤しむような開かれたものではなく、例えこの先何十年何百年たってもおそらく変らないであろう非現実的な時間の喪失による永続性が、その閉じられた世界ならではの特性を際立たせています(借景式の修学院離宮は風景が崩れ始めている)。その周囲の現実の喧騒から乖離する為の結界としての柵・垣根には、周到に計算されたシステムが施されています。
 離宮の東側の桂川沿いに竹笹の垣根があり、一見するとただの竹薮に見えますが、実はこれは竹林の上体を生きたまま折り曲げて建仁寺垣に止めたもので、桂垣と呼ばれる唯一のもの。さらに表門から通用門までは先端を錐形に削いだ等間隔の真竹に穂を組み込んだ穂垣と呼ばれる垣根が続き、柔軟でありながら強固な柵で防御を固めています。

 

 桂垣の途絶えた場所に正門である御成門があります。竹製のよるひどくシンプルな門で、そのまま穂垣に連なっており、連続性のある違和感の無い意匠。桂垣を含めて周囲を竹による様々な意匠で縁取られており、離宮本体の用材も竹が多く使われていることから、竹の御殿と言えるかもしれません。見学者は奥の通用口から出入りします。

 

 苑内に入ると道は池に向かって真っ直ぐに延び、すぐ行き止まりになります。その手前に住吉の松と呼ばれる小振りの松があり、風景を遮っています。客人が庭園を一望することを避けるためのもので、その後御殿に入って初めて庭園の風景を楽しむ為のものとか。御成門から御幸門を潜って御殿へ向かう苑路がここまで延びてきており、御幸道と呼ばれています。小石を敷き詰めた”霰こぼし”になっており、水はけを良くするため中央が少し盛り上がっています。この道を御幸門方向へ進むと茶屋の1つである松琴亭へ至ります。

 

 御幸道を御殿の方へ向かうと茅葺の中門があり、その門の内側へ入ると中は杉苔に覆われた60坪程の壺庭で、そこから左斜めへ石畳が延び、御殿の玄関である御輿寄へ至ります。特にこの石畳は「真の飛石」と呼ばれる名高いもので、様々な形状に切り取られた切石を、ジグソーパズルの様に嵌め込んで構成された幾何学的でモダンな優れた意匠。その先の石段の上に大きな沓脱ぎ石が置かれており、6人分の沓が並ぶことから「六つの沓脱」と呼ばれています。この石も水はけの為に中央が少し盛り上がっています。

 

 この御輿寄は御殿の古書院のすでに一部で、この奥に古書院・中書院・楽器の間・新御殿が良く知られる雁行型に並びます。御殿の中で智仁親王が造営したのはこの古書院のみで、小規模で非常に簡素な建物だったようですが、その後智忠親王が中書院を増設し、さらに時間を経て新御殿を追加し完成させたのが今の姿。つまり智仁親王は雁行型となるとは露とも知らないわけで、この有名な構成は息子の智忠親王のアイデアというわけ。それと親子の造営時期の経済力がかなり反映しているようで、智忠親王は加賀百万石の前田家の姫君を妃にしたこともあり潤沢な資金力に物を言わせ、内部の意匠は相当に凝ったものに変更。中書院はまだ杉の皮付丸太や木瓜形欄間など細部に数奇屋風の意匠が入るだけで端正な造りのものですが、一番新しい新御殿になると複雑な構成の桂棚や櫛形窓の付書院に、御剣棚・卍欄間・四季の花手桶形引戸と、過剰なまでの装飾性が際立つ華美な空間となり、古書院とは正反対の意匠となります。この外観を共通にしながら内部は方向性がまるで違うねじれ・矛盾が、評価が二転三転する要因の1つなのでしょう。残念ながら現在内部は公開されていません(以前は中に入れた)。
 外観で大きく目立つ特徴はその雁行形と共に高床式があげられ、桂川が氾濫した時の為の防衛策らしいのですが、やはり眺望を楽しむ為に床を上げたものとか。もし氾濫してこの御殿の床下まで水が張った姿は、それはそれで厳島神社のように美しい姿になるような気がします。

 

 

 池に一番近い古書院の前面に、竹縁による月見台があります。能舞台の様に大きく前へせり出したフルオープンデッキで、眼前の池に浮かぶ月の姿を愛でる乙な趣向。なんでも古来この地は「月の桂」と呼ばれるほどの月見の名所だったそうで、智仁親王も月を楽しむ為にこの別邸を構えた模様。凄く広い池なのに、ここから見ると中島や岬によって両サイドがトリミングされる為、奥深い入江状に見える不思議な場所で、池が古書院前だけにあるように見えます。

 

 苑内は茶屋が4つほど点在しており、いずれも表題に春夏秋冬をモチーフにした四季の茶屋。古書院の御輿寄前に広がる露地の池畔に立つ「月波楼」は秋の茶屋で、古書院の月見台同様に観月の為に設えられたもの。外観は屋根は柿葺の寄棟造りによる平屋の簡素な建物で、小高い丘の上にあり池の眺望が一番良い茶屋です。

 

 内部は4畳の一の間と7畳半の中の間に4畳の口の間の3間取りの構成で、中の間と口の間が池側にあり、この二間だけ天井が無く屋根裏を見せた化粧屋根のプリミティブな構造。その屋根を曲がりくねった皮付き丸太で支えた、軽やかで野趣溢れる意匠となり、玉堂や大雅の文人画にでも出てきそうな趣で、高台寺の傘亭にも似ています。中の間の扁額は「歌月」とあり、靈元上皇の筆によるものとか。

 

 

 奥の一の間は竹の竿縁平天井を張り、墨蹟窓を開けた床に出書院も設けた正統的な座敷。この一の間の隣に凹形状に中に入り込んだ土間があり、3畳程の広さの板の間が付属した空間で、大炉や竈に水屋と備えた、どこか峠の茶店風の佇まい。どっこらしょと腰を落ち着けたくなります。

 

 次の松琴亭へ行くには、舟に乗って池を渡って行くか、御幸道を御幸門の方向へ戻り、途中で右折して飛石伝いに向かうかの2パターンがあります。実際に舟遊びはよく行われたようで、と言うか舟遊びが主体のような庭園だったようです。そのもう1つの行程である飛石道は中々変化があって面白く、次々と風景が変るので飽きさせません。蘇鉄山や州浜の灯台に卍亭など、趣向を凝らしたユニークな物件が続き、遊び心の多い点が特徴。州浜の先に小島が2つ並び、その間を水面スレスレに石橋が架けられていて、「天橋立」と見立てたそうですが、ちょっと無理ではないかと?飛石道の終点は松琴亭の前に架かる馬鹿太い石橋。京都白川産の巨石を運んで来たそうで、確かに周りの情景を締める見栄えのする重厚なもの。この橋を渡った先の右手に石が配されて池に降りられます。流れ手水と呼ばれる蹲踞で、松琴亭の茶室用。桂川の取水口に近いので嘗ては清流だったのでしょうが、今は取り込みは止めているし、どっちにしろ淀んでいるのでバッチイです。

 

 

 その白川橋を渡ると、苑内で一番大きい「松琴亭」の前に出ます。ここは冬の茶屋となり、寒さ対策の為に暖房として石炉が設えてあります。屋根が入母屋造りの茅葺で、柿葺の茶室が付属した構成。ここから見られる庭園の景色はことのほか美しく、特に天橋立や州浜に対面の月波楼と御殿が一望できるパノラマビューのロケーション。

 

 内部は11畳の一の間と6畳の二の間が池側に並び、背後に茶室と3畳の水屋と5畳の控室が並ぶ構成で、中央に採光の為か中庭があり、平面図で見ると口の字型になっています。内部意匠で最も目を引くのはなんといっても一の間の襖や床壁の市松模様。青と白の加賀奉書を貼り合わせたもので、智忠親王の妃である加賀前田家に因む意匠なのですが、このスタイリッシュなモダニズムはたしかにタウトが好みそうではあります。どこか歌舞伎の舞台にも似た感じ。一の間の西側に釣戸棚があり、その下に暖房用の石炉があります。ここで雪見も楽しめられたとか。二の間には違い棚の下にこっそりと下地窓が開けられてあり、これは茶室の風炉先窓。機能的にも優れた建物でもあります。

 

 

 一の間の縁側には竹と葭で編んだ袖垣が立てられ、内側に竈・炉・流しが設けられたフルオープンの水屋があり、客人の前で亭主が直接料理をしてもてなす為のものだそうで、まあ今で言うと庭でバーベーキューみたいなもんですな。月波楼にも同様の趣向の水屋がありました。このあたりは農家建築を思わせるものがあり、貴族の方が好む田園趣味といったところでしょうか。この建物は庇が異様に深く、この水屋もすっぽりと庇の下に隠れるので、日差しも遮り雨でも平気。橡の皮付き柱と梁で支えた化粧屋根は月波楼と同様の手法で、田舎風の侘びた佇まいのものです。

 

 二の間の隣にある茶室は3畳台目の広さに、奥に点前座を置く間取り。曲がりの入った皮付き丸太の中柱に二重釣棚を配し、下座に床を造り手斧目付きの杉を床柱に立てて、床框に真塗りを施すといった細部の構成。天井は床前3畳が真菰白糸編に丸い竹竿縁の平天井、台目畳上が化粧屋根裏となり、この台目畳上に突上窓が開けられた構成で、月見用の窓だそうです。窓が多い明るい茶室で、点前側に織部風に色紙窓と突上窓、客側に連子窓2つに下地窓と床の墨蹟窓と8つあり、「八窓の囲」とも呼ばれています。色紙窓の裏手は中庭。この3畳台目の間取りで窓が8つある茶室は他にもあり、曼殊院の「八窓の席」、戦災で焼失した大阪一心寺の茶室、それに南禅寺金地院の「八窓の席」(実態は六窓)などが挙げられ、何れも小堀遠州好みとの謂れがあるのですが(金地院は確証)、実際にはモダンで洗練された瀟洒な佇まいが遠州風というのが実情のようです。智忠親王はわざわざ堺まで行って千利休の茶室(南宗寺の実相庵か?)を見学して参考にしたとの話があるのですが、利休風とは似ても似つかない遠州風になるのは不思議な謂れではあります。(おそらくデマ)

  

 道をさらに先に進むと一転して山道となり、小高い丘のテッペンに「賞花亭」が佇んでいます。春の茶屋だそうで、風が通り抜ける吹き放しの開放的な造り。智忠親王の今出川本邸にあった「龍田屋」という建物を移築したものだそうで、峠の茶屋風の趣。眺望の良さが特筆物で、眼下には池の向こうに御殿が、そのまた彼方に遠く愛宕山まで見られます。

 

 

 ここから一気に御殿へ向かって山下りになり、橋を渡ると御殿前に到着。このあたりは春の躑躅が美しい所。橋を渡らずに池の畔を南へ向かうと「園林堂」の前に着きます。この建物は屋根が本瓦葺の宝形造りに唐破風の向拝付きの建物で、智忠親王が持仏堂として建立したもの。軽快な風情の建物が多い中で、苑内では異色の重厚な建物。


 

 

 園林堂の前から太鼓橋を渡って園路を進むと左に「笑意軒」が見えてきます。このあたりは苑内で一番奥まった場所にあたり、池もここでは細い入江に変り、プール状にならして船着場として機能させています。この「笑意軒」は夏の茶屋で、外観は屋根が寄棟の茅葺に柿葺の庇を付けた鄙びた田舎屋風の建物。4つの茶室の中では一番農家風で、それもそのはず裏手に水田があり、智忠親王が野良仕事に精出す農民達の風景を楽しむ為に造られたとか。マリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿に畑を造らせ、農民達の姿を見て喜んだのと同じような趣向で、洋の東西を問わずやんごとなきお歴方は、田園生活が趣味のようです。

 

 内部は一番東側に一の間を置き、続いて中の間と口の間が南北に並び、その隣に次の間と膳組の間が直列に並ぶ間取りで、東西に細長い構造。池側の口の間の鴨居上に径一尺程の丸い下地窓が6つ横に並んでおり、それぞれの材質や構成が微妙に異なる面白い意匠。肩の力を抜いたユーモラスな効果を狙ったものなのでしょう。深い庇は杉面皮付きの柱と桁で支えた軽快なもので、下に手水鉢や飛石を配した露地の構え。

 

 中の間の腰掛窓の下には、金箔と天鵞絨(ビロード・ベルベット)を三角に裁断した腰壁が貼られてあります。松琴亭の市松模様同等に大胆な意匠で、琳派の宗達や光琳を彷彿させるシャープで斬新なデザイン。次の間の南側には幅3尺程の竹縁が付けられ、外に竹連子を嵌めた竹づくしの軽やかな意匠。向こうに見える水田の風景をここで楽しんでいたのでしょう。
 杉戸や襖の引き手には御殿同様に凝った意匠が採用され、杉戸に矢、襖に櫂の図案が掘り込まれています。

 

 



 「桂離宮」
   〒615-8014 京都市西京区桂御園
   電話番号 宮内庁京都事務所参観係 075-211-1215
   参観は事前予約 参観希望日の3ヶ月前の月の1日から往復はがき・宮内庁webサイトで予約し抽選
   すぐ締め切られる 18歳以上
   参観休止日 土・日曜日 国民の祝日 12月28日〜翌年1月4日
   但し第3土曜日と、4・5・10・11月の土曜日は参観可