倚松庵 (いしょうあん)



 日本橋生まれのチャキチャキの江戸っ子だった谷崎潤一郎が、関東大震災で泡食って尻尾丸めて関西に引っ越したのは1923年(大正12年)の37歳の時。それ以降は芦屋・神戸・京都と関西でも一等地に移り住み、最晩年は熱海や湯河原で過ごしましたが79歳で亡くなるまでの後半生を概ね関西で暮らしました。で、この関東→関西の転居は谷崎にとって大きな転機だったようで、それまでの悪魔的・猟奇的とも言えるグロテスクなまでの耽美的な作風は薄まり、パセティックで繊細な純日本的情緒を強く出した作品が次々に生み出されていきました。当然この背景には関西独特の風土にあることは間違いなく、古典的・伝統的な文化・芸術が田舎者の関東とは比べ物にならないほど根付いており、また上方文化の浄瑠璃や平家物語に見られる日本独特の美学である”はかなさ・せつなさ”が谷崎の感性に刺激を与えたようです。引越し前の関東在住時は武智鉄二監督のハードコアポルノ映画の原作となった「白日夢」「華魁」「人面瘡」、それにSM趣味の強い「刺青」「少年」「魔術師」とエログロラインが続きますが、関西転居後は「卍」「吉野葛」「盲目物語」「蘆刈」「春琴抄」「細雪」と、名工が丹念に作りこんだ美しい伝統工芸品のような小説が並び、その中でも代表作である「細雪」の執筆を始めた邸宅が、神戸の魚崎地区に残されています。

 

 魚崎は神戸市でも一番東寄り、芦屋に近い海沿いの住宅街で、海へ向かって南向きの緩斜面が続くとても日当たりの良い土地柄。この周辺は関西でも屈指の御屋敷群が並ぶ高級住宅街で、特に山側の阪急神戸本線が走る御影・岡本・芦屋川の各駅は朝日新聞・武田薬品・野村證券等の社主・創業者の豪邸がこれでもかと建ち並んでいます。海側の阪神電車が走る地域はそれに比べれば随分庶民的ですが、この魚崎周辺は閑静な住宅街で比較的緑も多く、地区中心を貫く住吉川は六甲山を源としていて、近所の方々のお散歩コースにもなっており、灘中学・高校もあるなど住宅環境としては悪くない感じ。谷崎が当地に引っ越してきたのは1936年(昭和11年)の11月のことで、関西では13番目の住居でした(谷崎は引越し魔)。

  

 敷地は133坪程あり、建物は木造二階建てで1929年(昭和4年)8月に建造されたもの。谷崎が建てた家ではなく以前からあった建物を借家としていたもので、当時は現在地より150m程南に位置していましたが、1990年(平成2年)に移築されています。この当時谷崎は三番目の妻である松子夫人と暮らしており、またこの家の前を流れる住吉川は松の木が多いことから、松に寄りかかっているという意味でこの家を「倚松庵」と名付けました。この松子夫人には二人の妹がおり、この実の娘でない三人の女性と暮らす奇妙な環境が、「細雪」に登場する四姉妹のベースとなっています。
 1階の南側は応接間と食堂が一続きに並び、上げ下げ窓が連続する陽光降り注ぐ明るい空間。庭にはテラス越しに綺麗に刈り込まれた青々とした芝生が広がる絵に描いたような光景で、ハーフティンバーの屋根にマントルピースやステンドグラスなども装備された、戦前のアッパーミドルクラスの瀟洒な邸宅といったところでしょうか。「細雪」によると家族は一日の大半をこの洋間で過ごしていたようです。

 

 

 が、やはり洋間だけでは落着かないようで、食堂の奥に4畳半の和室もあります。こちらは庇が深く少し奥に引っ込んだ配置になっているせいか昼でも薄暗いのですが、北側は廊下を挟んで風呂場となり、西側の床の間の下に掃き出し窓があるのでとても風通しが良くて涼しく、夏の日盛りの午後を過ごすにはうってつけの部屋。庭も洋間の前は芝生なのにこの和室の前は木立があって、目にも涼やかな夏の部屋です。女性達もこの部屋でダラダラと過ごしていたようですね。

  

 二階は和室が3部屋直列に並び、何れも窓が大きく取られた見晴らしの良い空間で、今はマンションで遮られていますが嘗てはオーシャンビューの潮香る部屋だったのでしょう。三姉妹の部屋として使われていたようです。「細雪」は1942年(昭和17年)に「中央公論」で連載が始まり、翌年の三月号まで掲載が続きましたが軍部の圧力により連載が中止され、戦後になってようやく完成した曰く付きの作品ですが、戦争が激化して色々と不自由があった時節なのに、あのように豪奢で絢爛たる世界を粛々と書き続けたその執念と、上流階級の四姉妹が時代の潮流に呑み込まれて没落していく様がそのまま日本の姿が投影されたもので、カタストロフがテーマだった谷崎にはどうしても書き上げたい題材だったのかもしれません。この家では1943年(昭和18年)の11月まで過ごし、翌年には空襲を避けて岡山県の津山へ疎開しています。

 



 「倚松庵」
  〒658-0052 兵庫県神戸市東灘区住吉東町1-6-50
  電話番号 078-842-0730
  開館時間 AM10:00〜PM4:00
  休館日 月曜日〜金曜日(祝日も休み) 年末年始