堀田邸 (ほったてい) 重要文化財



 東京から成田へ行くちょっと手前にある佐倉市は、あまり知られていないのですがその昔は城下町だった場所で、市内中心部にちゃんと城跡もあるし結構立派な武家屋敷街も並ぶ、意外と情緒ある風景が残されていたりします。隣の成田が新勝寺の門前町として今でも賑わいを見せるのに対してかなり地味目ですが、時間に余裕のない外国人ツーリストには、成田とセットで手軽に日本情緒を味わえるスポットに変身出来るかもしれません。そんな紅毛碧眼の方々にもお薦めの御武家様の御屋敷がチョイと小高い丘の上にあり、下々の者にも広く公開されています。最後の佐倉藩主だった堀田正倫の御屋敷だった場所で、その後日産の所有になり高齢者向け介護施設に変貌したのですが、御屋敷の建物はそのまま残されているので、敷地内に入ってかまわずズンズン進むと奥のほうに門を構えた建物が見えてきます。

 

 堀田家は徳川幕府の歴代にわたり大老や老中を務めた名家で、最後の殿様だった正倫は明治維新後に伯爵として東京で暮らしていましたが、1890年(明治23年)に当地に邸宅を構えたもので、当時の敷地はなんと3万坪。今はさすがに小さくなって1万坪ですが、それでもさすがに大名屋敷はスケールが違うよなというところです。敷地内には主屋・門番小屋・土蔵などが立ち並び、いずれも国の重要文化財指定。主屋は増築を重ねたらしく間取りの多い建物で、玄関棟・居間棟・座敷棟・書斎棟・台所棟・湯殿と6つの棟が複合的に組み合わさった少々ややこしい構成。台所棟は大半が破却されています。玄関棟は重厚な破風屋根を載せた式台の隣に”中の口”と対面所が並ぶ、身分に応じた出入り口が3ヶ所もありますが、我々下々の賎民は眺めるだけで脇の下人用から入りましょう。この式台の奥は端正な造りの”応接の間”で、これだけでも立派な客間として使用できますが、ここはまだほんの序の口。

 

 

 この”応接の間”から渡り廊下で湯殿があり、ここは大正天皇が皇太子時代の1911年(明治44年)に堀田家農事試験場の視察の際に休息用に増築したもの。やんごとなき御方々はどうやら湯船に浸からないようで、御用邸でも見られるかけ湯のスタイル。脱衣所の”化粧の間”や渡り廊下は数奇屋風の設えで、料亭の離れのようです。

 

 

 ”応接の間”からは湯殿の反対側に、さすがは大名の御屋敷らしく長い畳廊下が続きます。数えると17畳敷き。途中でT字路状に畳廊下が別方向にも走り、こちらは別棟の座敷棟へと続きます。この畳廊下や玄関棟・座敷棟の釘隠しには桐の文様が使われており、客人向けの格式の高さを示しているのでしょう。ちなみに縁側には楓の文様が使われています。

 

 

 その座敷棟は主屋から庭園に張り出すように造られた平屋の建物で、12畳半の客座敷を中心とした4間取りの構成。何か大きな行事がある際に使われていたのでしょう、10畳の次の間と合わせて広々とした空間が作られ、縁側越しに広い庭園も目に飛び込む、やけに明るい空間です。いわゆるハレの場というやつです。建物の西側に祠堂が付設されています。

 

 

 畳廊下を曲がらないでそのまま直進すると、家族の生活空間だった居間棟。この棟だけ2階建てで、高台にあるため2階からの眺望は非常によろしです。座敷棟や玄関棟がシンプルながら端正で重厚な造りだったのに対して、この居間棟は色々と凝った遊びがあるようで、鹿の図案を掘り込んだ襖の引き手や、鳥形の戸袋の引き手、桐の透かし彫りによる欄間など、各所に手の込んだ意匠が見られます。1階居間の引き戸には跡見花蹊の絵が描かれており、跡見学園の創始者だそうで、明治期を代表する女流画家だった模様。この棟だけ釘隠しが山百合に変ります。

 

 

 この居間棟から渡り廊下で書斎棟が続きます。7畳半と8畳の2間構成のこじんまりとした平屋の建物で、水屋も付属していることから茶室としても使われていたようです。居間2階と共に普段は非公開ですが、ごくまれに公開されます。

 

 主屋から離れているので、ちょっといけないことをする為に篭るような感じ。おそらく主人の趣味の部屋だったのでしょう、内部の意匠は最も趣向を凝らしており、特に床の間まわりは修学院離宮の霞棚に似せた違い棚や、戸袋に数種類の文人画を入れるなど軽やかで繊細な、とても優美な設えです。
 それ以外にも七宝焼きによる引き手や、一つ一つ面取りした障子の格子、さらには天井にインド更紗も張られた、凝りに懲りまくった室内意匠で、ここで主人は篭って何かをしていたのしょう。一角には仏壇もあります。

 

  



 「旧堀田邸」
   〒285-0025 千葉県佐倉市鏑木町274
   電話番号 042-483-2390
   開館時間 AM10:00〜PM4:30
   休館日 月曜日 12月26日〜1月4日