細川刑部邸 (ほそかわぎょうぶてい) 熊本県指定文化財



 熊本市中最大の観光スポットと言えばもちろん熊本城で、日本三名城にも数えられるほどの立派なお城ですから歴史ブームの影響もあってとても人気が高く、戦後に復元された天守閣や本丸御殿には終始ひっきりなしに観光客が登城仕っているようです。この熊本城は本当に広大で、98万uと東京ドーム約21個分もの広さがあり、そのうち天守閣や御殿のある本丸は繁華街に近い一番東側にあたるせいか、中心部より西側の二の丸・三の丸へは観光客はあまり足を向けていないようですね。確かに大半が芝地となって美術館・博物館・野球場・広場などの市民向けのレクレーション施設の場所と変貌していますが、かつては宮仕えの武家屋敷が並んでいた場所で、54万石を誇った大きな城下町でしたから当時は格式の高い武家屋敷の街並が見られたのでしょう。明治期になって全て取り壊されてしまいましたが、城外に移り住んだ殿様の弟の末裔が構えた武家屋敷が三の丸に移築されており、往時のサムライワールドの雰囲気が味わえる施設となっています。

 

 この武家屋敷を構えたのは、初代肥後藩主細川忠利の弟であった刑部(ぎょうぶ)の11代目にあたる興増で、維新後の明治の初めのこと。初代細川刑部は茶人としても知られる忠興(三斎)の息子で、二代目が城下の子飼にお茶屋を造り後に下屋敷としたのがその始まりらしく、1871年(明治4年)に城内に鎮西鎮大が設置されることにより城下へ屋敷を移ることになり、下屋敷を本邸として今に残る邸宅が構えられたようです。お金が余っていたのかバブル真っ盛りの1990年(平成2年)に観光資源として城内に移すことになり、4年後の1994年に当地へ移築されています。
 さすがに元お殿様一族で明治期には男爵を務めていたお方ですからその陣容は中々素晴らしく、鉄砲蔵も備えた大きな長屋門の奥に御屋敷が待ち構えています。

 

 なんでも建坪は約300坪あるそうで、式台付きの玄関や客間・表書院・奥書院・書斎・茶室・台所など各棟が複雑に織り成して建てられており、武家屋敷と言うよりは大名御殿のような様相です。各棟とも屋根は切妻造りに片側が寄棟か入母屋造りで本瓦葺。一番西側にある玄関は二つあり、唐破風屋根の式台による正玄関と、その北側に簡素な御次玄関が並ぶ構成で、このあたりにも殿様ライフが感じられるところ。

 

 

 玄関入って右手に14畳の「御広間」が並び、その奥に「円窓ノ御間」が続きます。この二つの座敷は簡易的な客間で、普段の来客や親族の応対に使われていたようです。この二つの座敷と中庭を挟んで「御客間」があり、こちらは親族用の寝室だった模様。この一帯は床の間がありますが円窓以外は比較的簡素な意匠の座敷が並びますね。

 

 

 「御客間」の隣は正式な客間となる「表御書院」。10畳ある主室は付書院や戸袋も付いた格式高い書院造の座敷となりますが、ここは当主と謁見する対面所でもあるので直臣以外の者は主室には入れず、隣の簡素な入側から言上していたそうです。明治期に変わっても殿様と家臣の関係が続いていたのですね。

 

 この「表御書院」の西側は奥書院で、こちらは当主のプライベートゾーン。寝室である「御寝室」やお召し替え用の「化粧ノ御間」等の座敷が並びますが、一番設えが良いのが最奥の角部屋に当たる「春松閣」。ここも付書院や戸袋の付いた書院造の座敷ですが、襖に銀箔を貼っていたそうで、別名「銀之間」とも呼ばれていたとか。炉も切られていますので茶も点てられますし、そういう面でも表御書院よりもくだけた趣味性の強い座敷なのでしょう。ここは二階建てになっています。

 

  

 この「春松閣」から少し離れた庭先に、茶室の「細川亭」が佇んでいます。そりゃ細川三斎の末裔ですからキチンとした茶室も当然あって、三畳台目に半室床の間取りによる端正な小間。隣は6畳の書斎となり、ここでも吉野窓が印象的な座敷です。

 

 元に戻って玄関から左手に進むとこちらは二階建ての台所棟。こちらは使用人達の仕事場兼生活空間で、一階の玄関に近い座敷が執事が取り次ぎを行う「御役の間」や配膳を行う「御膳の間」、さらに土間に竈が並ぶ「御台所」等が並び、二階には寝泊りする厨子が置かれる構成。「御役の間」と「御裏方頭ノ間」以外は板の間による質素な造りで、奥書院や書斎との意匠の差異は封建時代の名残なのでしょうね。熊本県重要文化財指定。

 

  



 「旧細川刑部邸」
   〒860-0007 熊本県熊本市中央区古京町3-1
   電話番号 096-352-6522
   開館時間 4月〜10月 AM8:30〜PM5:30
          11月〜3月 AM8:30〜PM4:30
   休館日 12月29日〜31日