世界平和記念聖堂 (せかいへいわきねんせいどう) 重要文化財



 原爆投下によって町そのものが消失してしまった広島も、その後の人々の復興は目覚しいものがあり、映画「仁義なき戦い」のように闇市を中心にエネルギッシュでバイタリティ溢れる市民生活が営まれて、嘗ては軍都として繁栄した頃の賑わいを取り戻していきました。当然バラックが犇めき合って建ち並んでいましたが、核の恐怖を訴え世界平和を祈願した施設を造ろうということになり、太田川のデルタ地帯に世界平和記念公園が、そして繁華街である八丁堀近くの幟町に世界平和記念聖堂が相次いで建造されました。この2つの施設はその設立目的もさることながら、戦後の日本建築界を代表する2人の建築家が設計し、また戦後の建築界におけるその記念碑的な作品としても知られており、それぞれ戦後建築としては始めて国の重要文化財に指定されています。世界記念平和聖堂はカトリック幟町教会の礼拝堂として建造されたもので、原爆投下の5年後の1950年(昭和25年)8月6日に着工し、その4年後であり原爆投下から9年後の1954年(昭和29年)8月6日に竣工されています。

 

 当地には戦前から教会があり、戦時中もミサ等の布教活動を行っていたのですが原爆により全て破壊されてしまい、自らも被爆した主任神父フーゴー・ラサール氏がこの聖堂を立案してローマ法王庁を訪れて、教皇に祈願し世界中から寄付を募って建造されたもので、ドイツやベルギー・スペイン・メキシコ等の各国からの支援により完成されています。まず最初にこの聖堂の公開設計コンペが開催された際に、一等該当無し(二等に丹下健三案)と発表された後に何故か審査委員長だった村野藤吾が設計を行うという掟破りな経緯があり、またその案もラサール神父を始めとして教会側から何度もダメ出しされてようやく今見る姿となったようで、戦前の前衛的なモダニズムの建築家として知られていた村野藤吾にしてはこの聖堂は比較的に古典的な外観をまとっており、神父達からさかんにカトリック礼拝堂の様式に添ったものを設計するようにとのお達しから、このような様式性と近代性が融合化したような意匠となったようです。建築面積は1230uに屋根の高さは23m、塔の高さは45m。鉄筋コンクリート造りのモルタルレンガ積みによる3階建て。

  

  

 資金的な面もあったようですが構造体が剥き出しで、打ちっぱなしの柱とくすんだ溝鼠色のレンガが積まれただけの簡素な意匠は、あえて華美になることを避けており、その設立目的の趣旨からいっても相応しいものなのかもしれません。仕上げはわざと荒くザラッとしたもので、戦後の混乱期に何度も中断の憂き目に会いながら現場中心の手作りで進められた証し。ここには幾人もの賛同者がその作品を残しており、正面入口には彫刻家圓鍔勝三・坂上政克両氏による、旧約聖書の中のエピソードである7つの秘蹟をモチーフとした彫刻が穿たれています。

 

 内部は玄関ホールに続いて、内陣と中央の身廊と両側に各一列の側廊とに分けられた三廊バジリカ形式で、カトリックの教会では良く見られる構成。ただカトリックの礼拝堂としては珍しく装飾が少なくシンプルな意匠で、外観同様に手作り感の強い粗野な印象も与える造りです。この内部にも賛同者からの寄贈品が多く設置されており、正面の壁画は当時の西独アデナウワー首相から、ステンドグラスはドイツ・ポルトガル・メキシコ・オーストリア等からの支援者によるもの。アーチ状の列柱が連続して並び、ステンドグラスによって淡いトーンに抑えられたた光線が降り注ぐさまは、絹のベールに覆われたようで、柔らかな荘重性とでも呼ぶべき神秘的な空間となっています。この聖堂建築の成功以降、村野藤吾のピークと見られる代表的な作品群(新歌舞伎座・佳水園・日生劇場・千代田生命ビル)が間をおかずに次々と産み出されて行った、その出発点ともなる記念碑的な作品でもあります。

 

 



 「カトリック幟町教会 世界平和記念聖堂」
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