東本願寺勅使門 (ひがしほんがんじちょくしもん) 登録有形文化財



 京都駅近くに広大な敷地を占める東と西の本願寺、それぞれ地元民には「おひがしさん」「おにしさん」と呼ばれる庶民階層向けの浄土真宗総本山ですが、こと建築物に関しては国宝級の文化財の宝庫である西本願寺に比べて幕末のどんどん焼けで一切合切が灰燼に帰した東本願寺はどうしても分が悪く、例えば御影堂が世界最大級の木造建築と言っても明治中期の近代和風建築ということもあり、有難味がどうしても薄まって感じられてしまうのは致し方の無い所。しかしこの時期は伝統工法による社寺復興建築のレベルがピークを迎えていた頃で、この東本願寺以外でも京都市内では南禅寺法堂・天龍寺法堂・東福寺方丈と質の高い大型仏堂が再建されており、逆に宮大工や職人たちの至高の技を堪能するにはうってつけの物件がゴロゴロしているのが、この時期の復興建築群だったりするのです。そしてこの東本願寺の諸堂は、このジャンルの代表的な作品が多く見られる場所でもあります。

 現在再建以来初の大型改修工事中の御影堂・阿弥陀堂は、1885年(明治28年)にそれぞれ9代伊藤平左衛門と木子棟斎という当時の代表的な名工が手がけた近代建築としての大型仏堂の傑作なのですが、この御影堂の北側へ白書院・黒書院などの書院群や、能舞台に大寝殿などの諸堂がさながら御所のように渡り廊下が複雑に織り成して連なります。このあたり西とは南北正反対の配置構成。で、この書院群はやはりこの時期の代表的な建築家だった亀岡末吉の手による近代和風住宅建築で、同じ設計者の手による仁和寺宸殿と同様の華麗なる宮殿のような建物です。いずれも内部非公開。
 そしてこの書院群と同時期に設計に当たったのが、大寝殿の前にある桃山風の豪華な勅使門で、白書院・黒書院と同様に1911年(明治44年)に再建されています。屋根が切妻造りの檜皮葺による四脚門で、間口が5.7m奥行が5.45m。国登録有形文化財指定。


 

 ちなみにこのお寺は門前を横切る烏丸通沿いに南北に4つ門が開けられており、この勅使門は北から2番目の門。他の諸堂が幕末の焼失前の江戸期の意匠で再建されているのに対して、この勅使門だけは何故か桃山期の意匠で設計されており、前後に大きな唐破風が付いています。この門は書院群の前にあるので、西本願寺の書院群(対面所・白書院・黒書院)の前にある国宝の唐門と同じ配置にあることになり、またその唐門は桃山期の作品で、「日暮門」とも呼ばれる華美壮麗な建物として名高いことから、対抗してあえて桃山期の作風で再建されたのかもしれません。門扉に菊の紋があしらわれていることから、寺では「菊の門」と呼称しています。
 当初は京都建築界のドンだった武田五一が設計に当たりましたが、寄附者の意向から変更となり、亀岡末吉が大幅に修正を加えて組み上げられています。
 その内容は俗に亀岡式と呼ばれる和洋折衷の斬新で独創的なインテリアデザインが氾濫しており、牡丹・唐草・アカンサス(西洋アザミ)等の植物を図案とする精緻で流麗な彫刻が到る所に見られます。元々東京美術学校(現東京藝大)日本画科を卒業した絵師でもあることから、グラフィックデザイナーとしてのアーティスティック的な感性が蟇股や木鼻に見られる草花の葉先の先端の細やかな曲線一本にまで息づいています。近代建築の中でも特異な位置を占める亀岡末吉の代表作です。

 

 

 当初は金箔や漆が塗られ、彫刻群も極彩色の目にも眩い壮麗な門だったようですが、経年変化で剥落しています。「日暮門」のような姿だったのでしょうね。
 この勅使門の後に白書院・黒書院の設計依頼が来たそうで、内部意匠だけ手掛けています。この門に採用された図案を基に「亀岡図集」が出版されており、また後に仁和寺や出石神社・大鳥神社などを手掛けていきます。

 



 「真宗本廟 東本願寺」
   〒600-8505 京都府京都市下京区烏丸通七条上ル
   電話番号 075-371-9181
   開門時間 3月〜10月 AM5:50〜PM5:30
          11月〜4月 AM6:20〜PM4:30
          年中無休