白沙村荘 (はくさそんそう)



 戦前の京都の美術界に京都画壇と呼ばれる大きな流派が存在していました。江戸期から続く四条派の流れを汲む一派で、四条派の抒情的な写実主義に西洋絵画の技法が導入された点に特徴があり、竹内栖鳳がその代表的な人物。弟子にも上村松園や小野竹喬など錚々たる顔ぶれが並んでいたりします。この京都画壇の画家達は当然京都市内や近郊に仕事場を構えており、例えば嵯峨野の霞中庵や大津膳所の蘆花浅水荘といった数寄屋建築の豪邸は、それぞれ竹内栖鳳や山元春挙の邸宅・アトリエだったものです。
 銀閣寺に近い北白川疎水沿いの白沙村荘も、同じく京都画壇のメンバーだった橋本関雪の邸宅として造られたもので、約1万㎡の敷地に大きさの違う三つの池を造り、その周囲に邸宅やアトリエに茶室群を点在させたこちらも豪邸。
 門の奥に見える主屋の瑞米山(ずいべいさん)は現在料亭として営業中。

 

 橋本関雪は1883年(明治16年)に神戸で出生しており、当初は四条派に属していましたが20歳の頃に竹内栖鳳に師事し、京都画壇の重鎮として活躍した画家でした。訪中60回を数えるほどの親中派だったようで、その画風も中国の影響が強く、この邸宅にもどこかしら中国風の香りが漂います。
 その白沙村荘の造営を始めたのが、1916年(大正5年)の関雪が32歳の時。今では信じられませんが当時は周辺一帯が水田だったとかで、土地を購入してからは関雪が設計し直接指示に当たって土を盛り池を掘って石を運んだようです。当初は今よりも狭かったようで、数回にわたって拡張しており、そのせいか庭園は少々複雑で三部構成。ちなみに名の由来は、そばを流れる白川が運ぶ白砂に由来するもので、かつてこの園内の池には琵琶湖疎水の水を引き入れていました。国の名勝指定。
 瑞米山の玄関前を抜けて石橋を渡り茅門を潜ると、園路が庭園内へと誘います。

 

 園内は一番北側に主屋の瑞米山を置き、南に存古楼(ぞんころう)と呼ばれるアトリエの大画室が渡り廊下で繋がり、その大画室からさらに西へ持仏堂が連なります。大画室がちょうど園内の中心に位置するように配置されており、周辺の景観・設備は全てこの大画室をメインとして構成されています。
 外観は一見すると三階建てに見えますが二層の部分は内部の採光用の為の窓で、木造二階建ての建物です。一階は約50畳敷きの板の間で、高い天井と北面以外に全てガラス窓を嵌めた明るい部屋なのですが、周囲の庇を深くすることによって直接太陽光を当てることなく間接的に採光を図っており、適度に柔らかく軽減された外光が内部に広がります。
 また二階は八畳間の座敷で、周囲の眺望を楽しむ為に作らせたものとか。石川丈山が造った洛北一条寺にある詩仙堂の嘨月楼と同様の趣向なのでしょうか。
 東側は園内でも一番大きな池が広がっており、その池の周囲の木立の奥に東山三十六峰の一つである如意ヶ岳が望める借景式の庭園となっています。この如意ヶ岳には五山送り火の大文字が良く見えており、その姿を池に映して愉しんでいたとか。

 

 

 この大画室の南側に夕佳門(せっかもん)と呼ばれる茅葺の門があり、この門から西側が持仏堂を中心とする別の庭となり、小池に竹林と羅漢石仏が織り成す大画室前とは異なる独特の風景が見られます。
 この持仏堂は妻の菩提を弔う為に昭和初期に建立されたもので、内部に鎌倉期の木造地蔵尊立像(国重文)が安置されています。

 

 園内にはその数200点にも及ぶ全国から集められた石灯籠・石仏・石塔が配置されていて、何れも関雪自ら設置位置を決めており、絵を描くのと同様に心血注いでこの庭園を造り込んでいったようです。

  

  

 大画室前の大池からさらに南へ進むと、また別の池が広がり、その周囲に茶室群が連なる三番目の庭となります。元々ここは憲法学者の佐々木惣一郎博士の住居だった場所なのですが、転居後に譲り受けて拡張したもので、この茶室群も大画室や持仏堂よりも後の建造となります。
 一番最初に完成した茶室は、池の東側にせり出すように建てられた問魚亭(もんぎょてい)で、1924年(大正13年)頃のこと。まるで中国の山水画にでも登場しそうな茅葺の茶屋ですが、関雪は詩歌も嗜んでいたようで、ここで池の鯉を愛でながら一句詠んでいたのかもしれませんね。待合としても機能していたようです。

 

  

 その問魚亭と池を挟んで対面するのが、倚翠亭(いすいてい)。勾配の低い桟瓦葺に軒廻りに杉皮を葺いた木造平屋建ての瀟洒な茶亭で、1932年(昭和7年)に建造されています。
 この倚翠亭へはそのまま直接庭から内部へ入れますが、池側に大小10個の飛び石が置かれており、この石伝いに縁側へと廻れる趣向で、この石の配置にも関雪は相当に心を配って置かれたようです。

 

 内部は六畳間に床の間と平書院付きの琵琶台による平面構成で、床の左手に袖壁が付き糸巻き型の下地窓が開けられています。南側に小間の茶室が続くので、その小間に対する広間として造られており、何より眼前の庭園の風景を愉しむ為の茶亭であることから、東側前面は明障子で開け放たれていて、開放的な数寄屋建築となっています。
 特に北面には広縁が取り付いており、その先の視線は大画室同様に如意ヶ岳に向いていることから、ここで優雅に五山送り火でも眺めていたのかもしれません。

 

 この倚翠亭の南側に隠れるようにして連なるのが、小間の茶室である憩寂庵(けいじゃくあん)。倚翠亭と同時に1932年(昭和7年)に建造されたもので、切妻屋根の正面に杉皮葺の庇を付けて、東側に躙口、南側に貴人口を開けています。
 倚翠亭の前からそのまま進めますが、問魚亭を待合として使うとその先に梅見門・石灯籠・筧と露地の構成が出来ているので、こちらから向かうのが正解のようです。

 

 

 内部は四畳半台目に給仕口前に板畳を付けた間取りで、京都高台寺にあった遠州好みの茶室のコピーとされています。但し相違点はかなりあり、まず床脇に持仏堂を設けている点と、その床柱が太い古材を転用している点、勝手側の色紙窓が無い点など色々と掲げられ、画家ならではの独自の感性でアレンジを加えていったようです。床と持仏堂との間の壁に花頭窓が開いている点もユニークな意匠です。
 この憩寂庵と倚翠亭は、残念ながら2009年(平成21年)3月31日に失火により焼失しています。

 



 「白沙村荘」
   〒606-8406 京都府京都市浄土寺石橋町37
   電話番号 075-751-0446
   開館時間 AM10:00~PM5:00
   休館日 年中無休