大平台・宮ノ下 (おおひらだい・みやのした)



 箱根へちょいと電車の旅をする場合、小田原方面からひとまず箱根湯本の駅で降りてから、今度は路面電車のようにコンパクトな車両に乗り換えて、強羅まで登山鉄道の旅が続きます。それまでの車窓に広がる長閑な田舎の田園風景からは一変し、幾つも現れるトンネルを抜け、目も眩む程高い鉄橋で深い谷間を越えて、急傾斜の森の中をキシキシ唸りながらガシガシ登って行きます。その路線全体での勾配はもちろん日本でトップであり、世界でも2番目の急峻さを誇るもので、各車両に105馬力のモーター4個を搭載した、フルスペックハイパワー装備で強力稼業を担います。森の中をジグザグ縫うように進むので曲率の大きなカーブも多く、車両の小さな理由はこの為だとか。それでもこの難路を完遂するのは苦しいらしく、途中3箇所でスイッチバックという飛び道具を使って山を攀じ登ります。この山岳鉄道ならではの醍醐味ともいえるスイッチバックが集中するのが箱根湯本駅から2つ目の大平台駅で、この駅の前後に1箇所ずつと、駅自体がスイッチバックしています。それだけこの辺りが特に急というわけ。

 

 この大平台駅周辺は一大観光地である箱根とは思えないほど静かなブロックで、駅前を箱根駅伝も往来する国道1号線が走るだけで商店らしきものは皆無。一つ手前の塔ノ沢駅と、一つ先の宮ノ下駅との間が最も急峻で標高差があり、その間に開けた比較的平坦な場所から大平台と名付けられたそうで、崖の途中のテラスのような地形を成しており、ちょっと隠れ里のような雰囲気があります。元々は戦国時代から挽物細工の職人が暮らす集落で、温泉も出なかったことからあまり俗化されなかったこともあり、大型ホテル・旅館は全く無く、宿もこじんまりとしたアットホームな施設ばかり。地形が複雑な為にひとたび国道から外れると路地が迷路の様に張り巡らされており、地元向けの雑貨店や美容院が点在する生活感の強い庶民的な風景が見られます。またこの近辺は紫陽花の群落地で、界隈のあちこちで群生しており、初夏の頃はお薦め。

 

 でもさすがに箱根だもの温泉欲しい!という住民のたっての願いか、戦後に資金を出し合って上の宮ノ下から温泉を引き、極楽気分を味わえるようになりました。まず公平にということか最初に共同浴場が開かれ、1951年(昭和26年)に「姫之湯」と名付けられたその温泉が入り組んだ路地の一画にあります。箱根にはこうした地元住民向けの共同湯が点在しており、特に登山鉄道の各駅毎には近辺にたいてい一つはあります。いずれも簡素な施設で料金はリーズナブル、地元住民の社交場ともなっているようで、高級旅館や観光施設の建ち並ぶよそ行き顔の箱根とは異なる、素朴でスッピンの箱根の姿に出会えます。
 この「姫之湯」の命名の由来は、近くに小田原北条氏の姫君が化粧用に愛用した「姫の水」と呼ばれる湧水があることからで、確かに水が良いらしくこの姫之湯のちょっと先の路地裏に、木綿豆腐の美味しい豆腐屋もあります。箱根の他の共同湯が比較的地味な造りなのに対してここは中々充実しており、まず1988年(昭和63年)に改築してあるので設備は新しく、浴室は六角形にガラス窓を大きく取った明るく広々としたもので、丸い浴槽に光がこぼれる気持ちの良い空間。部外者でも入り易いです。2階は広い畳座敷の休憩室で、別料金でゆっくり休めます。駐車場の片隅に「美肌の滝」と呼ばれる温泉がドバドバと流れ出ており、有料で分けてもらえるそうです。

 

 

 さて大平台駅から一つ進むと今度は宮ノ下駅に着きます。ここは箱根七湯にも数えられる古来伝来の温泉地だった場所で、江戸期には大名の奥方や豪商が長逗留して湯治に勤しんでいたとか。明治期には外国人向けの保養地として開発され、クラシックホテルの代名詞的存在の富士屋ホテルを中心に、レトロ物件が建ち並ぶエキゾックな街並が大きな特徴です。八千代橋で蛇骨川を渡ると右手に大正期の洋館があり、以前は岡島医院という病院でしたが今は子孫の方が温泉を汲み上げて、「函嶺」という名で日帰り温泉を運営しています。週末は結構混んでます。

 

 

 宮ノ下の地名の由来は神社の下にあることから。その神社は富士屋ホテルの上にある熊野神社で、能の演目にもある様に熊野は「ゆうや」とも読まれることから、温泉の守り神として崇められているようです。この熊野神社へ至る参道は富士屋ホテル脇の細い路地を進むのですが、その鳥居前からか細い小径がうねうねと森の中へ消えて行きます。この道は「チャップリンの散歩道」と呼ばれており、日本贔屓のチャールズ・チャップリンが富士屋ホテルで滞在した際に、この小道を好んでプラプラしていたそうで、喧騒から離れて一人ポツネンと黙想に耽っていたのかもしれませんね。イノシシに注意!

  

 このチャップリンの散歩道を抜けると、温泉旅館が建ち並ぶ一画に出ます。宮ノ下にしてはひどく鄙びた寂然とした場所で、表通りの高級旅館やホテルに土産物屋が続くいかにも観光地然とした街並とは対照的。どう見ても家族経営と思われる小規模の宿が続きます。このブロックの奥に町営の温泉小学校があり、なんと校舎内に温泉が引かれていて、大浴場で全校入浴の時間があったそうです。この旅館群の子供達も通学していたのでしょうね。1873年(明治6年)開校の135年の歴史を持つ学校ですが、少子化の影響で残念ながら2008年春に閉校されたそうです。

 

 宮ノ下界隈には、宮ノ下温泉の他にも堂ヶ島・底倉・木賀と温泉が隣接しており、何れも七湯に数え上げられる老舗の温泉。この中で底倉温泉裏の蛇骨川沿いに遊歩道があり、対岸に「太閤の石風呂」と呼ばれる大きな窪みが見られます。秀吉が小田原攻めの際にここで疲れを癒したという説があり、今は枯れていますが以前は湯が湧いていたそうなので、ここで天然野天風呂を満喫していたのやもしれません。

 

 その太閤の石風呂の由来から、宮ノ下界隈の中心部に共同湯の「太閤湯」があります。周囲のレトロゴージャスな環境とはあまりにもミスマッチな外観はかなり奇異に見えますが、元々地元住民向けの庶民派指向の温泉なので、無駄な事には一切金を掛けない潔さが信条。男女共に大湯・小湯と2つずつあり、断崖絶壁にある為に特に大湯の窓からは対岸の明星ヶ岳の山並がバッチリ見えます。お湯もナトリウム塩化物泉のかけ流しで、舐めるとちょっとショッパイです。湯船に浸かりながら遠く山並を眺めているだけで、もう極楽気分です。

 

 宮ノ下でお薦めは、駅前のあじさい坂を少し下りて右手にある「NARAYA CAFE」。老舗の奈良屋旅館の従業員寮を改築したカフェで、店前のオープンデッキで足湯に浸かりながらソフトドリンクやアルコール類・ジェラード等がオーダー可能。特にオーガニック豚によるソーセージを挟んだホットドッグが美味。

  



 「姫之湯」
   〒250-0405 神奈川県足柄下郡箱根町大平台583
   電話番号 0460-82-2057
   営業時間 AM9:00〜PM9:00
   休業日 木曜日

  「太閤湯」
   〒250-0404 神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下223
   電話番号 0460-82-4756
   営業時間 AM7:00〜PM9:00
   休業日 毎月1日・11日・21日(土・日曜・祝日の場合、翌日休)