五島美術館 (ごとうびじゅつかん)



 今ではすっかり絶滅品種となりましたが、その昔は鉄道事業者のオーナーと言えば、ワンマン経営の権化みたいな御仁が多々見られ、特に「ピストル堤、強盗慶太」と異名をとった西武鉄道や東急電鉄のオーナー達の様に、押しの強さと腕っ節で会社を運転した時代がありました。戦前から高度経済成長の昭和30年代あたりまでがそのピークで、平成の世になっても唯一残っていた堤家の終焉と共に姿を消した次第です。その絶大な資金力を活かして古美術品を買い漁るのも共通した傾向で、東武鉄道の根津嘉一郎や阪急電鉄の小林一三のコレクションが夙に知られていますが、東急の五島慶太も同様に優れたコレクターとして名を馳せており、その膨大なコレクションを自邸内に美術館を開いて保存公開しています。

 

 そもそも当初はそれほど古美術に関心は無かったようなのですが、社外取締役だった近鉄が古美術品の美術館(大和文華館)を計画していることを知ってから元来の負けず嫌いに火が点き、コレクションを始めたのが後発だった為に比較的地味な古筆を中心に蒐集が進められ、気が付けば国宝5点・国重要文化財50点を含む4000点もの膨大で優れたコレクションが出来上がったというわけです。自らを号「古経楼」と命名したように特に写経と墨蹟は優品が数多く並び、このジャンルとしては国内屈指のもの。
 また国宝に指定されている「源氏物語絵巻」「紫式部日記絵巻」の2つの絵巻物が有名ですが、そもそもこの絵巻物は益田鈍翁のコレクションだったもので、戦後にキッコーマンの高梨家に売却されたものを破格の高値で購入しており、その金額でキッコーマンはコカコーラボトリングのライセンスを買って莫大な収益を上げたというエピソードもあります。古筆が中心ではコレクションに華が無いということで、美術館開館の大きな目玉にしたかったようですね。まだ交渉中にも関わらずに建築家の吉田五十八に設計を依頼して王朝風の建物を造らせているのも、五島慶太らしい逸話です。喜寿の祝いとして1960年(昭和35年)4月18日に開館しましたが、直前に死去してしまい、慶太自身は美術館を見ることは出来なかったようです。

 

 内部は大きな展示室一つで、あとは狭い休憩所とミュージアムグッズを販売するちょっとしたスペース。コレクションは素晴らしいのですが施設は少々寂しい陣容です。例年GW前後に「源氏物語絵巻」が、10月中旬に「紫式部日記絵巻」が公開されるので、この時期に拝観する方多しです。展示以外のお楽しみは、広い庭園散策。敷地5千坪にも及ぶ大豪邸の名残か、園内は茶室群や東屋や池が点在しており、武蔵野の雑木林をそのまま残す深い木立に覆われた園内を巡って歩くのは中々気分が良いです。

 

 戦前の実業家は茶道を嗜むのが当然でしたので、この美術館にも350点程の茶道具が収蔵されており、特に鼠志野茶碗「峯紅葉」や大燈国師筆「梅渓」(共に国重文)が名品。で当然の様に茶室も園内にあり、美術館本館横に茶苑があります。門を潜って最初に現れるのが慶太の号を模った「古経楼」という茶室。台湾総督を務めた田健治郎が明治末期に台湾檜で建造した茶室だそうで、田没後に慶太が購入し移築したもの。12畳半と8畳の広間が並ぶ書院造の建物で、南面に広くガラス窓を取った室内は茶室というよりは高齢者の隠居場のような趣です。

 

 

 移築した後に慶太は隣に「松寿庵」という小間の茶室を増築しており、こちらは正統的な内容のもの。4畳台目に隅板の平面構成で、織部好みの奈良八窓庵に似ています。1940年(昭和15年)建造。

  

 この2つの茶室の南側に「富士見亭」という立礼式の茶室があります。見晴らしの良さが特筆物の建物で、野川崖線の高台にあるせいか窓外は遮るものは何も無く、名前の由来にもなったように冬のよく晴れた日は富士山がよく見えます。1957年(昭和32年)に建造された茶室で、奈良西大寺山門の古材を随所に使用しているとか。これらの茶室群は通常は非公開ですが、極まれにイベント等で内部公開されます。

 

 園内は傾斜地になる為その形状はアップダウンが激しく変化に富み、各所に石仏・石塔・古墳・六地蔵・赤門等が点在されて風景に陰影が与えられて、やや寂しげな侘びた風情があります。桜の名所でもあるのですが、隠れた紅葉の穴場でもあります。

 

 



 「五島美術館」
   〒158-8510 東京都世田谷区上野毛3-9-25
   電話番号 03-5777-8600
   開館時間 AM10:00〜PM5:00
   休館日 月曜日 祝日の翌日 年末年始