臥龍山荘 (がりゅうさんそう) 重要文化財



 霧の町大洲、伊予の小京都とも呼ばれるこの静かな城下町は、四国きっての大河である肱川が、中流で大きくカーブする地点に開けた小さな盆地状の山間の田舎町。複雑な地形と気象条件により霧が発生しやすく、全てを隠すように白のシェードが覆い被さり、その垣間からのぞく山裾や川が神秘的な光景を作り出しています。肱川は町の中心をゆったりと流れ、その河原では春には花見が、夏には鵜飼や花火大会、秋になると紅葉狩りや芋煮炊きが行われる市民の憩いの場。その川の畔に、明治期の町屋造りの街並が残されており、変に観光地化されていない純然たる庶民としての慎ましやかな暮らしが今でも営まれています。霧のヴェールを纏った川沿いのノスタルジックな街並を抜けると、川を足元に見下ろす小高い丘の畔にフイと出ます。ここは臥龍淵と呼ばれる古くから知られる景勝地で、代々の城主が遊行を楽しんだ風光明媚な場所。藩主が別荘を構えていたのですが維新以降は荒廃していたようで、その後地元の豪商が土地を購入して別邸を造営しました。「臥龍山荘」と名付けられた風雅な山荘で、今は大洲市に寄贈されて公開されています。

  

 この臥龍山荘は、大洲出身の貿易商だった河内寅次郎が明治30年頃に土地を購入して、約三千坪の敷地に茶室や数寄屋風建築を次々と造営して別邸とした山荘で、苑内には「臥龍院」「知止庵」「不老庵」と三つの建物が点在しています。それぞれ特異の内容を持つユニークな建造物で、ユニークな人柄で知られた建築家の故黒川紀章氏が絶賛した謂れもある、一風変わった数寄屋風建築です。川岸から急な石段を昇り、小さな黒門を潜り抜けて苑路を進むと、母家である臥龍院に辿り着きます。この臥龍院は屋根が茅葺の木造平屋建てで、建坪43坪の草庵風の外観による建物。見た目が簡素なので内部も同じやと思うとさにあらず、凝りに凝った意匠で散りばめられている不可思議な建物です。

 

 寅次郎はまず先に奥にある不老庵を建造し、その後この臥龍院に着手しました。施主は相当な凝り性の持ち主だったようで、桂離宮や修学院離宮を熱心に研究しその意匠を細部に取り込み、さらに京都から大工・漆工・金工・木彫の達人を呼んで、約九千人の人員を擁し4年の歳月をかけて、1907年(明治40年)に完成させました。内部は玄関の「巡礼の間」を含めて4部屋あり、何れも意匠が全く異なり、部屋を移る度に印象が異なる空間に身を置くことになる、カレイドスコープのような建造物です。「巡礼の間」の隣に「霞月の間」、その奥に「清吹の間」、そして矩折りに「壱是の間」が続き、「霞月の間」と「壱是の間」には外縁が、そして「壱是の間」には畳廊下が付属し、庭園に対座しています。(内部撮影禁止)

  

 この中で最もユニークなのが「清吹の間」。夏向けの部屋だったようで、床は一面に籐編みの敷物を張り、欄間に水玉・菊水・花筏等の水にちなんだモチーフの透彫りを入れ、修学院離宮と同型の時雨高欄を供えた大きな書院窓を開け、その書院の上に出節の多い丸太柱に支えられた大きな神棚を配した、涼やかなんだか神聖なんだか判らない不思議な部屋。「壱是の間」も一見すると正統的な書院造の座敷に見えるのですが、実は床下に12個の備前焼による壺が置かれており、畳を上げれば能舞台に変化するという仕掛け付き。床の間の書院窓は桂離宮新書院一の間と同じ意匠で、天井板も桂離宮と同じ春日の中杢を採用。「霞月の間」では、床の間に大きな丸窓があり、裏にある仏間の灯明がちょうどこの丸窓に位置し、その明りが月を思わせるという乙な趣向。襖の引き手も蝙蝠形に施されており、夕暮れ時を意識した座敷だった模様。何か尋常ではないスケールの大きな遊びの建物と言えます。

 

 

 苑内は南北に細長く敷地をとり、東側は肱川沿いの切り立った高い崖。臥龍院は苑内最北に位置し、その縁側からは庭園越しに川の流れも一望できます。庭園も建物同様に色々と工夫が見られ、特に配された庭石は”てまり石”・”臼石”・”伽藍礎石”等様々なタイプが置かれ、大坂の豪商淀屋辰五郎の豪邸にあった銘石もあったりします。この臥龍院から南へ延段や飛び石で苑路が続き、奥の不老庵へと導かれます。

  

 

 

 苑路は途中で枝分かれし、少し戻る形で進むと「知止庵」があります。元々は浴室だったものを、戦後の1949年(昭和24年)に茶室に改造したもので、間取り2畳で床や棚も無いシンプルな造り。他の二つの建物とはかなり趣向が異なります。

  

 来た道を戻りさらに奥へと進むと不老庵があります。その道すがらは石灯籠のオンパレードで、色々なタイプがさりげなく置かれていたりします。

 

 

 苑内では一番南にある不老庵は、1901年(明治34年)に竣工した8坪ほどの小さな草庵風の建物で、屋根が茅葺の寄棟造りによる木造の平屋建て。内部は桁行5間奥行4間の広間一室に、三畳台目の茶室が付属します。広間は南西北が障子のみの開放的な空間で、特に夏の時期は川風が爽やかに吹き抜ける納涼気分満喫の部屋ですが、厳冬期は地獄。

 

  

 この不老庵もやはり中々凝った細工が施してあり、まず床は畳ではなく臥龍院の「清吹の間」同様に籐編みの敷物を張り、天井をプラネタリウムの様に穹窿状に撓ませ、そこに竹網代を張ったかなり異質な空間。どうやら寅次郎はこの建物を舟と見立て、苫舟に揺られながら川遊びと洒落こんだ状況を再現したかったらしく、このような舟の意匠が織り込まれた模様です。またこの天井は川面の月の反射を受け止める意味もあるそうで、風流な月見酒でも楽しんでいたのかもしれません。

 

 この建物でもうひとつユニークなのが、この建物を崖で支えている支柱の一本が生きた槇の木が使われていることで、そのせいか縁側が途中でぶった切れています。極めて危険!この槇の木は「捨て柱」と呼ばれています。

 

 この不老庵は危険極まりない崖上にあり、いわゆる舞台造りで組まれた構造体の上に、頼りなげにちょこんと乗っかっている状態。縁側の真下には紺碧の肱川がゆったりと流れていて、眺望はすこぶる良好ですが、大洲に直下型の大地震が訪れないことを願うばかりです。臥龍院と不老庵は国重要文化財指定。

 



 「臥龍山荘」
   〒795-0012 愛媛県大洲市大洲411-2
   電話番号 0893-24-3759
   開館時間 AM9:00〜PM5:00
   休館日 年末年始