回漕問屋福田屋 (かいそうどんやふくだや) ふじみ野市指定文化財



 タマちゃんがウロチョロしていた荒川は、かつては江戸と川越を結ぶ交通の要路だった川で、川越からは名物”いも”やそうめん、江戸からは肥料や油・海産物などが積荷として幾多の船が行き交い、その沿岸の寄港地では商店や飲食店が軒を並べて賑わいを見せていたところ。ところで荒川は川越市内を流れていないそうで、今から300年ほど前に近所の川に改修工事を行って、荒川に合流する新河岸川を造ったのですが、この川は岸辺に蘆が生い茂り、周りは畑や水田に雑木林が連なる、起伏の少ない武蔵野の里山をゆったりとのんびりと進む、景色も流れも本当にゆるい川。この新河岸川の上福岡にある福岡河岸も、回漕業の寄港地として栄えた場所の一つで、18世紀後半から3軒の船問屋が営業を始めて活況を見せた土地でした。大正期の東上線開通によりその役目を終えましたが、往時の回漕問屋だった福田屋が今も遺され公開されています。河岸に臨む傾斜地にあり、緩い石畳道に寄り添うように粋な黒塀が続き、門の奥に三階建ての建物が印象的な建築群が見えています。

 

 回漕問屋福田屋は、1831年(天保2年)から1911年(明治44年)まで営業し繁栄した船問屋で、この福田屋の周りにも江戸屋・吉野家と2軒の船問屋がありましたが、福田屋の他は吉野家の文庫倉だけが残るのみで、往時を偲ばせるものは数少なくなりました。福田屋もかつては10棟以上の建物が軒を並べて繁栄を極めていたようですが、十数年前は住む人も無く荒れ放題で、ようやく近年修復され主屋・離れ・文庫倉の3棟が往時の姿に復元されたというわけです。主屋はこの建物群の中で一番古く、明治初期の建造による二階建ての入母屋造りで屋根は桟瓦葺き。内部は一階入り口に帳場・金庫室を並べ、通り土間が続くいわゆる店がおかれ、その奥に4間の座敷が田の字に並ぶ構成。店では帳場格子や造りの立派な箱階段など商業用の意匠が眼を引きます。

 

  

 座敷のほうは接客用のスペースとなり、庭に面した「おく」は平書院付きの書院造りのフォーマルな部屋。特に平書院のガラス窓はすべて細桟で、デザインも当時としては斬新でモダン。
 二階は家族や使用人の住居空間で、一階の座敷部と同じ田の字型の4間取り。こちらはとてもシンプルな意匠です。主屋からは張り出すように台所棟があり、内部は広い土間に竈が並んでいて、家族だけでなく沢山の客や使用人相手に活躍していたのでしょう。

 

 

 主屋の隣の「はなれ」は、1900年(明治33年)頃に建造された三階建ての建物。埼玉県では10棟ほどの三階建ての木造建築があるようなのですが、この福田屋のみが住居用のものとか。この「はなれ」は主屋の建坪の3分の一にも満たない程の狭い敷地で、それぞれ一部屋づつしかなく、まるで寺院の三重塔に近い細長い箱を立てたような外観です。かつては東京などにもこのような三階以上の木造建築を持つ住宅があちこちで見られたようですが、今はさすがに震災や空襲などですっかり姿を消してしまいました。裏側に回ると軒を支えるのにせがい造りが採用されているのがわかります。

 

 

 一階は四畳半の座敷に浴室・手洗いの構成で、座敷は数寄屋造りの凝った意匠。浴室は今はなく、旭光型の装飾天井だけが残されています。
 ここから二階へ上がる階段が半端じゃなく急。狭くて暗くて傾斜が60度もあり、高齢者や足腰の弱い方には過酷な試練です。

 

 

 二階と三階は10畳の座敷となり、それぞれ床の間のある端正な部屋で、ここも接客用だった模様です。床の間の床柱は二階は黒檀、三階には紫檀が使われ、良材で設えられた巧みな工匠による部屋なのですが、明治の中期ということか、窓に緑と白の市松模様のギヤマン入りのステンドグラスを嵌められており、幻想的で不思議な魅力を部屋に与えてユニークな効果をあげています。

 



 「福岡河岸記念館」
   〒356-0011 埼玉県ふじみ野市福岡3-4-2
   電話番号 049-269-4859
   開館時間 AM10:00〜PM4:00
   休館日 月曜日 12月27日〜1月4日