醍醐寺(下醍醐) (だいごじ) 国宝



 空海の開いた真言宗はチベット密教の流れを汲む為か、高野山のように山奥にその寺院を造営することが多く、京都でも神護寺や高山寺など人里離れた深山幽谷に開かれました。(例外として東寺があり、これは天皇から下賜された為)空海の孫弟子に当たる聖宝もやはり師の教え守り、山深い醍醐山に修行場として醍醐寺を開き、真言密教の修練に勤しんでいました。今でも醍醐寺は醍醐山の山頂から裾野にかけての広い山域に、80余りの堂塔が立ち並ぶ巨大な山岳道場の様相を持っていて、京都でも屈指で壮大なスケールを感じさせる空間が広がっています。
 山の麓は下醍醐、山の頂は上醍醐と呼ばれ、それぞれ幾多の建造物で構成されているのですが、下醍醐のほうは平地に巨大な建造物を配した壮麗な大伽藍を造り上げているのに対して、上醍醐は傾斜地に堂舎が点在するいかにも密教的な山岳伽藍を構築しており、山上山下でそのスタイルに大きな違いを見せています。下醍醐は総門を過ぎて秀吉縁の桜並木を進むと現れる巨大な西大門がその入り口。西大門には巨大な仁王像が睨みを利かせていて、別名「仁王門」とも呼ばれています。

 

 西大門を潜ってしばらく進むと森の中の開けた場所に金堂と五重塔が見えてきます。北にあるのが金堂、南に建つのが五重塔で、どちらも国宝に指定されています。金堂は丹塗りが印象的な大規模な仏堂で、桁行7間奥行5間の大きさに屋根が入母屋造りの本瓦葺き。建立は平安後期の11世紀後半から12世紀にかけてと推定されていますが、元々は紀州の湯浅にある満願寺の本堂だったもので、1600年(慶長5年)に秀吉の命により移築されたもの。これは度重なる火災で下醍醐の建物は五重塔以外は全て焼失し、秀吉が再興した折にいわゆる「醍醐の花見」に合わせて移築が計画された為です。

 

 巨大な建造物のわりには穏やかな表情を持つのは平安期の建立だからでしょうか、風格がありながら優美な趣が漂います。正面7間のうち5間が扉で、その両脇に連子窓を開け、周囲に高欄を廻し縁下には亀腹基壇を築いています。この建物の特異な点は鎌倉期に大きく改造していることで、正面の柱上の組物が出三斗に対して側面は平三斗となっており、表側1間に手が入った為。内部は板敷きで内陣として方3間を置きその左右に1間の中陣、さらにその周囲1間を外陣を廻した構成で、鎌倉期の密教仏堂のように格子等で結界を設けない簡潔な構造となり、建ちの高い折上小組格天井とも相まって、ただでさえ大きな仏堂がより広々とした印象を与えています。

 

 

 金堂の南に建てられた五重塔は唯一の醍醐寺創建時の建物で建立は952年(天暦6年)、既に千年以上の歴史を持つ京都市内最古の建造物でもあります。森の中に悠然と聳えるこの巨大な塔は、基壇上の高さが約38mあり、これは東寺・興福寺・法観寺(八坂の塔)に次いで4番目の高さ。積年の変化によるものか、構造物のやや紫がかったくすんだこげ茶の色合いは、柔らかな風合いを持つようになり、樹々の緑と渾然となった一幅の風景画のような気品を漂わせています。

 

 この塔の最大の特徴は相輪が長いことで、全長の3分の1を占める程に長いのですが、意外とアンバランスな印象はなくかえって安定感の高さが感じられます。これは各層の高さが初層に比べて可なり低く、上層へ高くなるにつれて各層の柱径・柱間・柱長等が漸次的に小さくなり、さらに各層の軒が長く尚且つ上層へ行くにつれて同様に逓減することから、相輪が長くても気にならないように見える仕掛け。飛翔せんとする鶴を思わせる優美な姿です。

 

 

 下醍醐にはこの金堂・五重塔以外にも、清瀧宮本殿(国重文)・不動堂・大講堂・弁天堂などが山麓の森の中に点在しており、一番奥にある女人堂から先が上醍醐へ上がる登山口になります。ここから上醍醐まではおよそ1時間の山道が続きます。下醍醐の手前には子院の三宝院があり、特別名勝の庭園や国宝の表書院がありますが、ここは撮影不可。下醍醐への桜並木に面した桐と菊の紋様が印象的な国宝の唐門は何時でも拝観できます。

 



 「醍醐寺」
   〒601-1325 京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
   電話番号 075-571-0002
   FAX番号 075-571-0101
   拝観時間 3月〜12月第一日曜日 AM9:00〜PM5:00
          12月第一日曜日の次の日〜2月 AM9:00〜PM4:00
   拝観休止日 無休