武徳殿 (ぶとくでん) 重要文化財



 岡崎公園の北に広がる平安神宮は、1895年(明治28年)の平安遷都1100年を記念して建立された神社で、もちろん華やかな王朝文化の復元という記念事業でもあるのですが、同時に国家神道の啓蒙的な意味合いも多分にあり、大日本帝国憲法が公布されて6年、さらには前年の日清戦争の勝利といったナショナリズムの高まりから、「神の国」という物語が可視化された聖域の一つとして造営された施設です。神武天皇と橿原神宮、後醍醐天皇と吉野神宮、天智天皇と近江神宮、明治天皇と明治神宮、そしてこの桓武天皇を祀る平安神宮は、いずれも明治期以降に建立された国家事業としての大規模な近代神社群であり、皇国史観の形成として必要な装置だったものです。
 この平安神宮建立と同じくして、京都に大日本武徳会という武術の復興を目的とする団体が発足され、その本拠地が平安神宮の敷地内に出来たのも偶然では無く、歴代の総裁も皇室の宮様が就任しています。本部が置かれた武徳殿は武術教員養成所としても機能していましたが、戦後は大日本武徳会そのものがGHQにより解散させられ、現在は京都市武道センターの一つとして、スポーツ施設として市民に広く活用されています。

 

 竣工したのは1899年(明治32年)で、隣が平安神宮ですし演武場という目的から純和風の木造建築で組まれています。外観は屋根が切妻造りの桟瓦葺で、桁行五間(23.6m)奥行三間(15m)による本屋の四囲に、二間の裳越が取りつく構成です。
 この時期は伝統的な和風建築の工法がピークに達した頃で、京都市内の寺社における復興建築も相次いでおり、東本願寺御影堂・阿弥陀堂(1895年)、天龍寺法堂・大方丈・庫裏(1899年)、南禅寺法堂(1909年)と大規模で技術的に完成度の高い仏堂が並びます。この武徳殿も同様に規模の大きな近代和風建築で、国の重要文化財の指定も受けています。

 

 設計にあたったのは京都府技師だった松室重光。当時は京都に赴任したばかりで、市内の古社寺の復興作業に係わっていた頃でもあるせいか、この武徳殿でも社寺の伝統建築の意匠が随所に反映されています。側面の蔀戸や組物の舟肘木に釘隠しなどその佇まいは端正な近世の仏堂を思わせるもので、南面から見ると東寺金堂にも似ています。

 

 

 北面にある檜皮葺の唐破風屋根による車寄せは、1913年(大正2年)に増築された箇所。こちらは設計が松室と同じ京都府技師だった亀岡末吉で、いわゆる亀岡式と呼ばれる線の細かい優美な曲線を描く彫刻が梁上に展開しています。

 

 

 内部は本屋が建ちの高い演武場とし裳越を観覧席とする構成で、主屋内には柱は無く広大な空間が造られています。この空間を生み出す為に西洋建築の工法が採用されており、裳越との間に太い円柱を林立させてその上部に筋交いを見せ、天井裏の小屋組にもトラスを用いるなど、和洋折衷の近代建築にもなっています。松室重光は京都ハリストス正教会や京都府庁本館等の西洋建築でも優れた作品を残していますので、ここでは表面的には伝統的な和風建築を装いながら、合理性を重視する西洋建築が上手に融合された建物となっています。施主の目的に応じてカメレオンのように顔が変えられる建築家なのでしょうね。

 

 

 演武場と観客席で構成される空間は芝居小屋にも似ており、例えば金比羅大芝居のように計算された舞台装置が備わります。この武徳殿では天井近くに採光用の窓が走っており、まるでハイライトが演武場に射し込んで、観客席とコントラストを付けて劇的な空間を作り出すことに効果を上げています。外側はあくまでも純和風の木造建築ですから主屋の軒と裳越の間に目立たなくさせてありますが、内部では最も効果的な舞台装置でしょう。

 

 もう一つの舞台装置は北側にある玉座。これは当初からあったものではなく、車寄せと同時期に増築されたもので、やはり設計は亀岡末吉の手によるものです。重厚な檜皮葺の唐破風屋根も印象的ですが、軒下のレリーフもまた亀岡式ならではの独特なフォルムです。

 



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